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今日ときめいた歴史198ー「サラワク州は百年以上もイギリス人一家の所有地だった!」

我が家が始めに住んだマレーシア・サラワク州は、百年以上イギリス人一家が統治する王国だった。初代の王は探検家James Brookeジェームズ・ブルック。この地の人はWhite Rajaと呼んだ(白い王様Raja)

(Wikipedia から引用)
「19世紀半ばのブルネイでは原住民の反乱が相次ぎ、ブルネイのスルタンは1839年にサラワクのクチンにやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼した。ブルックは、英国海峡植民地庁の協力で鎮圧に成功し、褒賞としてサラワクが割譲され、ラジャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国された」

つまりこの広大なサラワク州は1841年から1946年の間、個人の私有物だったということだ。この王国は、次にジェームズの甥Charles Brooke、その子Vyner Brookeと太平洋戦争で日本軍が統治するまで三代続いた。

左James Brooke、上Charles Brooke(甥)、 右Vyner Brooke(長男)、
中下Bertram Brooke(二男)この本の著者Anthony Brookeは、Bertramの息子


当時を考えるととても不可思議な状態であったと思う。何故なら現在のマレーシアのマレー半島部分はイギリスの直轄植民地であったが、近隣のボルネオ島北部のサラワクはイギリス人一家が統治する王国で、もう一つのサバは北ボルネオ会社が管理する地域だったからだ。何故半島と同様に直轄植民地にしなかったのだろうか。

イギリスはマレー半島で主に錫の採掘、天然ゴムやパームオイルなどのプランテーション経営を行っていたが、サラワク王国は天然ガスや石油の宝庫で、木材の産出など半島よりずっとリッチで魅力的な土地だったはずなのにイギリスは食指を動かさず、一人のイギリス人の統治を許した。この王国をアメリカはイギリスより先に承認している。

(我々が赴任した当時、サラワクの人々はサラワク州の資源から得た財源が半島の政府に持って行かれサラワクは貧しいままだと不満を漏らしていた)

ブルックは、農業に従事させるために多くの中国人を入植させた。一方、治安や警察・軍事にはマレー人を起用した。これらの中国人は華僑と呼ばれ、のちにこの島の経済を掌握する。宗教的にも習慣や文化的にも異なるこの二つの人種は折り合いが悪かった。その上、イバン族、ビダユ族その他の少数部族が存在する多民族王国は複雑な様相を呈していた。

また日本人も多く移住していたようだ。日本人会(今でもあるだろうか)の敷地には多くの日本人の墓がある。墓跡を見ると男性ばかりでなく女性や子供の墓もある。中には大工の棟梁とその一家、お手伝いの女性の墓もあるとか(お彼岸にはおはぎを作って供えたことがあった)

戦後日本軍が降伏した後、ブルック家はサラワク王国をイギリスに割譲しようとしたが、イギリスはここでも強い興味を示さなかったようである。最終的にマレー半島のマラヤ連邦とボルネオ島のサラワクとサバの2州そしてシンガポールを統合しマレーシア連邦として独立した。しかし、のちに華僑の勢力の強かったシンガポールはマレー系中心の政府を嫌い離脱している。サラワクの華僑なども独立すべきだったとよく口にした。

当時サラワク・サバ州は東マレーシアといわれ、半島側の人間は「未開の地」でも見るかのように見ていたと思う。半島からサラワク州に入る際は、別の国ででもあるかのようにパスポートの提示、検疫、税関のチェックが行われていた。

最後に訪れたのは2019年。すでに帰国して数十年たっており、街は大きく様変わりしていた。

(写真は、クチンで発行された写真集から)

ちょっとアマゾンかと見間違えるジャングル地帯。川は南シナ海に流れる
Mulu Cave始め多くのcave が点在する。右下はDeer Cave
熱帯雨林とオランウータンや天狗ザルなどの動物
ホーンビルはサラワクの象徴的な鳥
サラワクは世界有数の胡椒の産地、他にパームオイル、ココア、サゴなど
サラワク川の対岸にわたる小舟Sampans

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