『その少年の名前を教えてもらえませんか?』(レンガ造りの喫茶店①)
煉瓦造りの喫茶店の女性経営者は、もう90歳を越えている。しかし、その口調は年齢を感じさせないほどしっかりしていた。
”ひったくり”事件の被害者だった。
夕方、その喫茶店を訪れるときは、正直、気が重かった。
被害感情は強いだろうし、被害弁償の目途も立っていなかったからだ。
だから、いまできることは、少年が被害者に宛てた手紙を渡すことだけ。
しかし、ただ手紙を送り付けるのは、あまりにも不誠実に思えた。だから、こうして足を運んだのだ。
案の定、最初は
「罪をおかした本人が謝りに来ないと始まらないでしょう。」
「親はなにをしているんですか。子どもは親の背中をみて育つものなのに、親は謝らないのですか。親が謝っている姿を見れば、少しは子どもも変わるんじゃないですか。」
と厳しい口調で言われた。
「でも、この少年はですね。。」と僕は、
少年が鑑別所に入っており、直接謝りに来れないこと、
面会に来てくれたり、一緒に謝罪したり、
被害弁償金を立て替えてくれるような親族が誰もいないことなどを、少しずつ伝えていった。
すると、被害者はしばしの沈黙のあと、こう言ってくれた。
「もしかしたら、その少年は、子どものころ、親から、当然学ぶべきことを学ばずに大きくなってしまったかもしれんね。」
「もし、謝りにくるのなら、私がゆっくり話をして、これまで学べなかったことを、親にかわって教えてあげますよ。」
「お金は大切です。自分で働いたお金ならその大切さもわかるだろうから、それで被害弁償したい、と持って来てくれるなら、受け取ります。」
僕は、少年は、少年院に送られてしまうかもしれないので、被害弁償はちょっと先になるかもしれないことも伝えておいた。
すると、被害者は、「それまで健康をたもって、会える日を楽しみしときます。」と言ってくれた。
気づいたら結構な時間が過ぎていて、外は暗くなっていた。そろそろ話を切り上げようとしたとき、唐突に
「その少年の名前を教えてもらえませんか?」
といわれた。
なぜ、名前を、しかも漢字まで知りたいのだろうと、疑問に思っていると、被害者はこう続けた。
「毎日、孫や知り合いのひとのために、仏壇へ祈っています。明日からは、この子のことも一緒に祈るようにしましょう。」
被害者から出たとは思えないやさしい言葉だった。
話の最後には、10年前に亡くなったご主人が一部を手作りしつつ、大事にしていたという煉瓦造りの喫茶店の成り立ちまで説明してくれた。
すっかり暗くなった夜道を帰りながら、今日、ここまで足を延ばして本当に良かったと思った。少年には、できるだけ、正確に被害者の今の言葉を伝えよう。
そして、いつになるかはわからないけど、少年と一緒にもう一度、あの喫茶店に足を運びたいと思っている。
※こちらに、少年院からでてきて数年後の示談の話が書かれています。
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