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わかる/わからない【下】

どこが落としどころなのか??

きゅうきゅうぱんぱん

とにかく仕事が多すぎるのが教育業界。
働き方改革とは言われるものの、特にそんなことは気にしない。
正直、それが悪いところでもある。

それは教育業界に限ったことではない。
地域の少年団などがそれに当たるだろうが、「子どものためにやっていることにお金のことを挟むのは卑しい」とする空気感が漂う。
一つ仕事としてやっているのだから、受け取るべき報酬は受け取る。
それは当たり前の事であり、当たり前のことをしてこなかったがために、そのツケが今になって回りに回ってきているのではないだろうか??

誰しも有限な時間の中、いわば命を削ってきているのに対価を支払わない傲慢さと言ったらないだろう。学校現場ではよくPTAに見られると思う。
共働きの世帯も多いだろう。それなのにボランティアを強要される。
もしその時間、働きに出れたら?? もし休暇中にPTAの仕事があったら??
対価を無視して、仕事をさせることの可笑しさが分かるだろう。

きゅうきゅうぱんぱんな仕事を減らしていければ、矛盾は少しずつ解消するだろう。
それは教員のためでもあり、ひいては子どものためだと確信している。

何でもかんでも期待しすぎでは??

学ぶことは尊いと思い込んではいないか??
全てのことに対して意味はあると思っているのか??
その前提を覆していくことが、これからは求められていくのではないか。

私たちは、子どもに対して何でも期待しすぎている。
過度な期待は、それが報われなかったときに大きな落胆をもたらす。
既に期待すぎている社会では、もうその前提を覆すことは難しい。

よく学校内で行われる「あいさつ運動」はその象徴ではないか。
あいさつを強制させ、あいさつをしなかった子どもを問い詰める。
背景には「あいさつはいいことで、このような運動をしているのだから、あいさつをすることは当然だ」との考えがある。傲慢すぎでは??

自然とつき合っていくには、地道な努力に加えて、予測ができないことを我慢する忍耐が求められます。わからないことを空白のままにし、何割ぐらいかわかれば、まあこんなところだろうと思って、とりあえずつき合う。そういう辛抱が必要になるのです。

「ものがわかるということ」 著 / 養老孟司

子どもは自然と変わらない。
私たちは特に自然に対して何でもかんでも期待しているわけではない。
子どもに対しては、地道に教えながら、何をしでかすかわからない状況を我慢する必要がある。そして、そこに対しては何らかの意味をもたせるのではなく、できたことに対してこちら側が何とか腑に落としていく。
そんなつき合い方が大事なのではないか??

まさに近年問題化した「教育虐待」は過剰な期待の裏返しであることがほとんどだ

楽することは悪いことじゃない

期待することは苦しくないですか??

初任者の頃(大学を卒業したて)は子どもに過度な期待をかけていた。
別にテストでいい点数が取れるようにとかではなく、私自身が期待をかけたとおりに動かしたいと思っていた。

言うとおりに動かせる=いい教員と勘違いしていた。
別に私の指示に従いたくないのならそれでもいい。
従いたくないのは、何かこちらにその分子があるに他ならない。
面白いことに、研究授業になると「子どもが分からないのは教員側に問題がある」と一斉に叩かれるのに、「指示通りに動かないあの子には何か問題がある」となってしまうのか。
子どもを第一に考えていたのに、負のベクトルは私には向かずに子どもに一方的に向かっていく。
それも鋭く。

感覚が落ちると、言葉や概念の重要性にも気づけなくなります。感覚が抜けた人たちは思考のすべてが言葉から始まってしまう。初めに言葉ありき、になるのです。

「ものがわかるということ」 著 / 養老孟司

子どもの立場に寄り添わないと、私たちの発した言葉は意味を失う。
分かっているはずなのに、怒りとなり、負の感情から言葉だけになる。
それでは一向に耳を傾けなくなるだろう。

放っておく方が丁度いい‼

期待しすぎない、教えることは教える、子どもの立場に立つ。
それだけを頭に入れていけば、きっと仕事は減っていくだろう。
別にキャリア形成を幼いうちからやる必要性や、他者と比較して悪い部分を焦点化するような成績など必要ないのだから。

どれもこれも社会から要請されているから、仕方なくやっているだけ。
どんどん心が離れていき、子どもと溝ができる(私みたいに)。

教員は仕事こそ素晴らしいが、きっと現状変わらなければ、自分の子には決して勧めないだろう。自身が潰れるのが先か、子どもを潰すのが先か。
過度な期待は、自分も目の前の子どもも不幸にしかねない。
だからこそ、今一度仕事を手放して、教員になろうと思ったその感覚が大事になるのではないか。

その子にとって未来がよくなるか悪くなるか、それはわかりません。ともかく彼らがもっているのは、何も決まっていないという、まさにそのことです。私はそれを「かけがえのない未来」と呼びます。だから、予定を決めれば決めるほど、子どもの財産である未来は確実に減ってしまうのです。

「ものがわかるということ」 著 / 養老孟司

子どもの全てに対して責任をもつ必要はない。
結局は育つには育つ。そこに適切な教えと支援があれば。
そう、もう少し楽に考えられたらいいんじゃないかなぁ……。

教育にも大事なエッセンスが含まれている、最良の一冊

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