見出し画像

どんな多様性を望むのか??

お互い様と思うこと

ちょっと大人になりません??

以前の旧アカウントの中で「多様性」について取り上げたことがあった。
様々な人のいいねやコメントが嬉しかった。
未だにこの「多様性」についてはよく分からない。
何がいいことなのか、何を信用していいのか……。
これからも考えていくことになるだろうが。

最近、様々なところで「論破」する場面をよく見る。
特に動画上(YouTubeやその他の動画含め)でよく流れてくる。
その人がどのような人なのか、背景を確かめずに一つのラベルからそれが全てだと思い込み、一方的に攻撃を加えていく様子を見る。
「論破」した側は優越感に浸れるが、「論破」された側は否定感をもつ。
結局は確執を生み、溝を深めただけ。そこから「多様性」は生まれない。

よく見られた一方的な「押し付け」はよくないだろうが、
そうでもない人に対しての攻撃はなんなのだろうか??(押し付けは一部だと思うが)

確かに一方的な「押し付け」は良いことではない。
ただ、そうでない人々が大多数を占める中、一つのラベルを傷つけることはその人を全否定することにつながるのではないのだろうか。
少し冷静になって、互いに大人になることが大切だろう。

どう思われているかは考えない

どう思われているか考えて、いいことなどないと思う(笑)
そんなことをしていたら、自分の本当の声が聞こえなくなってしまう。

昨日のつぶやきは妹のことを綴った。
私の妹はダウン症である。
それでも家族はあっけらかんとしている。普通に一緒に出掛ける。
よく小さい子からジロジロ見られることはあるが、別に気にしない。
本人もまんざらでもない顔をしているから、それでいい(笑)

一緒にいて楽しいと思えればいいのではないか??
小さい頃から一緒にいるからか、障害のある方と会う機会も多かった。
別にそれが当たり前になってしまえば、「多様性」なんて言葉もいらなくなるだろう。

どう思われているかなんて考えなくていい。
私たちは、やりたいことをやる。それだけでいいだろう。

数々のバッシングの中で

はばかられる「多様性」

「多様性」を認める方向に世間が動きつつある。特に企業は敏感だ。
しかし、「多様性」がはばかられるところは少なくない。
私の学校現場での経験は、まさにそれを物語るに遜色ない。

これからを担う人財を育成するのが教育機関である学校。
そこでは「多様性」は重んじられることはない。
理由は簡単。指示を通すことに対しての妨げになるからだ。
それぞれが別々のベクトルを向き出すと手が付けられない。
引いてはそれが現場を揺るがすかもしれない、と思われている。
(一部の親の顔色を窺ってバッシング被害に遭わないこともあるが)

今年度に入り、教科書がざっと変わった(小学校は)。
支援員で今もなお、学校と接点があるが、教科書を見てみると様々な子どもが描かれている。肌の色や顔つきなど、その違いは顕著だ。
実際にそこで見て、感じることは物凄く大事だと思う。
しかし、それだけで済まされないか??
何となく上っ面だけを撫でて終わらせてしまうのではないか??

教えること、実際に会ってみることでしか「多様性」は生まれない。
上辺だけの「多様性」に正直嫌気がさしてならない。
教えもせず、「多様性」とは何となくこんなものだと感じ取らせ、口にすることもはばかられるのであれば、それは心から理解したことにはならない。

つながりたい人とだけつながる

私たちはSNS上ではつながりたい人とつながっている。
それは現実の世界でも同じだと思う。
しかし、SNS上に見たくない情報や自分と考え方が違う投稿が目に留まってしまうと、攻撃をして排除したくなってしまう。何かに取り憑かれた様に。

攻撃したい気持ち、排除したい気持ちはぐっと堪えることが大切だ。
これには理屈などない。
理由を挙げれば、互いにハッピーエンドを迎えないから。

一方的に「押し付け」ることはよくない。確執を生む。
応戦して攻撃したり排除したりすることはよくない。確執を生む。

人は互いに共感を得てないと、願った方向へと突き進んでいかない。
だから、冷静になって考えるときが必要だ。
だから、責任をもって教えることが必要だ。

互いにハッピーになってくれればそれでいいのだが、難しいなぁ……。

みんなで一緒に歩ければいいなぁ

いよいよ「はままつレインボープライド」が今週末‼
私は妹と一緒に歩く予定👣
現地にはたくさんの友達もいるから、一緒に楽しく歩きたいなぁ🙃

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?