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涙の胃カメラ

これまでの健康診断で、色んな生活習慣病的な数値で引っかかったことはあったが、胃のX線で引っかかったのは初めてだった。ちょっとイヤな感じの影があると言う。「ちょっと影のある男」と言われることはあったが、胃に影があると言われたのは初めてである。昨年末の健康診断のことだった。

健診施設のドクターが説明のために見せてくれたX線画像を見ると、確かに胃の中にポコッとした何かがあるように見える。

「まあ、大したもんじゃないと思うけど念のため診ておきますか。胃カメラで」

その、あまり心配させないように気をつかったような言い方が、逆に妙に気になる。

(なんか随分デコボコしてるが本当に大したもんじゃないのか!?)

俺は説明するドクターの目をじっと見つめてそこにヒントを捜したが、そこはベテラン・ドクター、その老眼鏡の奥の眠そうな一重まぶたからは何も読み取れなかった。しかし、イヤなモノである。この年になると叩けばホコリの出る体、そろそろ知らないうちに何かが起きているのかもしれない。

「胃カメラがある所ならどこでもいいので近所のクリニックで一回診てもらってね。紹介状書いときますから。は~ぃ、お大事に~、は~ぃ」

老眼鏡ドクターはそう言った。

***

なんか、やな感じだった。健診施設から足取り重く出て来た俺は、そのまま行きつけのイタリアン・レストラン(レストラン名:サイゼリヤ)に向かうとペペロンチーノを食べながら、PCをカバンから取り出して、俺の住む街のクリニック(いわゆる診療所)を検索してみたのだった。

「最寄りの駅名+胃カメラ」というキーワードで検索するとかなり沢山のクリニック名がヒットした。やはり、レストランと医者はクチコミが大事だろう。俺はそこに「くちコミ」というキーワードを追加してもう一度検索ボタンを押してみた。すると色々なクリニックのくちこみ情報へのリンクがずらっと並んだ。

(おっ、このクリニックが一番家から近そうだな)

俺はそこに現れたクリニックのうちのひとつを選び、そのリンクをクリックした。

くちコミ情報の欄にはいくつかの受診者のコメントが書かれていたが、医療的な情報はほとんどなく不平不満や中傷という感じのものばかりだった。「全く患者の話を聞かない。5秒で診療が終わった。そんなにしゃべるのが嫌なら医者なんかやめればいいのに」とか、「ここの院長と婦長は完全にデキてる。とんでもない不倫クリニックだ」などとネガティブなコメントが並んでいた。

(そうかあ、ここが一番近いから便利なんだけどなあ ……)

トップページの写真を見るとかなり感じの良い初老のドクターである。こんな人が院内不倫をするものだろうか。それからしばらく他のクリニックのくちコミ情報を見ているうちに気が付いたのだが、だいたいどのクリニックのくちコミを見ても悪意に満ちた悪口や文句が多かった。

同一地区の同業他院が、足を引っ張るために書き込んでいるのだろうか。まあ患者が書いているとしても、満足した人よりも、満足しなかった人の方が書き込む事が多いだろうからどうしても悪い情報の方が多くなってくるのだろう。

どこのサイトのくちコミも似たような感じなので、俺はその不倫クリニックを予約した。

***

さて初めての診察の日、呼ばれて診察室に入って行くと、ホームページの通りの柔和な顔のドクターが俺を迎えてくれた。

俺が持っていったCDに焼かれた健診施設のX線画像を見ながらドクターは言った。

「痛い?」

胃のことを聞いているようだった。

「言われてみればたまに痛い気も …….」

「ま、胃カメラすれば直ぐわかるから」

ドクターは何かの書類を書きながら「年内にやっちゃいましょう。今週いつこれますか」と言うのだった。俺が(おお、結構急だけど早く安心したいので助かるな)と思いながら、土曜には来れますよと言うと、ドクターは「麻酔はあり?なし?」と聞いてきた。

(え、麻酔は選べるのか。まあ、コーヒーもいつもミルクなしのブラックだし、まあ胃カメラも麻酔なしの方がいきかなあ ……)

そう考えた俺は。「えーと、じゃ、なしで!」と、ラーメン屋でニンニク抜きのラーメンを頼むような調子で気軽に答えたのだった。

***

さて、胃カメラ当日である。前日から食事を抜いて朝早くクリニックに行き、所定の検査着に着替えて胃カメラをする処置室に入っていくと、青い術着を着たドクターの横に、同じような恰好をした、なるほど、ちょっと年配美人風の助手がいた。この人がうわさの婦長なのだろうか。この頃はまだ余裕があった俺はそんな事を考えていた。

「えーと、麻酔は無しでしたね」

寝台に横になり油断していたら、いきなり胃カメラセッションは始まった。口の中に何かスプレーをかけられちょっと痺れた感じがしたのも束の間、口から太い黒いケーブル状の物が入ってきた。

「おえーっ!」

俺は大きく嘔吐えずいた。実は胃カメラをやってもらっている間、ドクターの説明を聞きながらモニターに映し出される自分の胃の中を観察するつもりでいたのだが、それは全くの夢物語だった。そんな事できる訳がなかった。俺は、最初から最後まで嘔吐えずきっぱなしだった。婦長はそんな俺の背中を「はい、力を抜いて下さいね」などと言いながら、ずっとさすってくれていた。俺は「じゃ、ナシで!」とイキっていた自分がはずかしかった。

結局俺は最後までモニターをチラリとも見る事はなく、その代わりに処置台の横に置かれた鏡に写った産卵中の亀のような涙でグシャグシャになった自分の顔を見ていたのである。

***

胃カメラが終わるとドクターは、涙を拭いた亀に向かい、術中にキャプチャーしたビデオを再生しながら、色々と説明してくれた。

「結構凄いね、この辺全部血の固まった跡ですよ」

モニターに映し出された胃の中には赤黒い点や陥没した穴のようなものがたくさんあった。いわゆる胃潰瘍らしかった。そしてドクターは、撮影中に組織を取ったので細胞検査にまわすと言った。

「まあ、大きさから言って悪いものじゃないと思うけど …… うん、ダイジョブだと思うけど …… まあ、念のためね」

(え、なんかヤバそうだな)

ちょっと歯切れが悪いし、なんだかドクターが俺の目を見なくなった感じがして、俺は急速に不安になってきた。

こういうのは気になり出すとキリがない。考えてみるとこのところずっと胃が痛かったような気がしてきたし、鏡を見ると心なしか目が窪んでいるような気もする。これは今しがた産卵で泣いたからなんだが。

細胞診の結果は二週間後に出るという。

***

そして若干の不安と共に二週間が経過した。その日曜日にクリニックを尋ねるとドクターは俺を笑顔で迎えてくれた。俺の不安は取りこし苦労だったようで、「やっぱり悪いものではなかったので安心してOK」と言う。三カ月くらいかかるかも知れないがクスリを飲んでいれば治るだろうとのことだった。いやあ、良かった。

これまでは健診などで脅かされても、まあ大丈夫だろうと思ってあまり気にかけなかったのだが、そろそろ脅かされると気弱にビビる年になってきた事に自分でも気がついた。そんな訳で、今年は基本的に健康増進の一年にしようと思い、とりあえず酒量を減らしつつ、近所にできたチョコザップの広告などを眺めているのである。


(了)

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