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【言葉の使い方】期待と希待。
「期待」という言葉には,期待する側が望ましいと思う場所に,期待される側が到達することを待ち望むというイメージがある。
あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。
『まとまらない言葉を生きる』を読んで,「希待」という言葉を知った。
一文字漢字が違うだけだけど,
「あなたが望む場所に辿りつくことを待っています。」
という相手を尊重する気持ちが表現されていると感じた。
周りが望ましいと思う場所と自分が望ましいと思う場所が一致していないと,期待される側としては苦しい闘いを強いられるよなあと思う。
期待されるということはそれだけ周りから評価されているということで,それ自体は嬉しいことだ。
だけど,もしも,自分が望んでいないゴールに向かうことを「期待」されていたら?そして,そのゴールを達成できなかったとしたら?
そういう場合の「期待を裏切られた」という言葉は,ものすごく暴力的なんじゃないだろうか。頼みもしないのに勝手に期待されて勝手に失望される。
表面的には期待する側と期待される側が同じゴールを目指しているように見えても,互いに立場も経験も何もかも違う人間である以上,もっと深い部分では全く同じゴールを望んでいるとは言えないと思う。優越感に浸りたいのか,努力が報われたいのか,コントロール下に置きたいのか…etc.
「期待」という言葉は,ポジティブな意味合いが強いと思い込んでいた。「それだけ期待されてるってことだよ,いいことやん!」みたいに励ましの意味を込めることもあった。
けれど,期待されればされるほどそれに比例してプレッシャーも強くなる。「希待」という言葉を知って,「期待」は使い方や受け取り方が難しい言葉だったのだと気づいた。軽率に使っていたことを反省した。
突出した能力を持っているとか,跡継ぎになることを望まれているとか,そういう人は特に自分がどうしたいのかを見失いやすいかもしれない。
でも,「期待」されたとしても,私たちは誰もが,周りが望むゴールに縛られる必要はない。
「期待」を「希待」に置き換えて,相手を尊重しながら応援したり励ましたり,自分を鼓舞したりできれば良いよなあと思う。
最後に,毎日オリンピックを楽しませていただいているので「希待」を込めて。
アスリートの皆さんがそれぞれの望む場所に立つことができますように。応援しています!
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