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【進撃の巨人1】何を信じて選ぶのか。(シーズン3の途中まで観て)

アニメ版の進撃の巨人を、シーズン3の半分くらいまで観た。私が中学生ぐらいのときに流行っていて,知ってはいたもののなんとなくずっと敬遠していた。今になってようやく見始めた。

時宜を得た,と思った。

物事には,それに触れるのに最適な時期っていうのが存在すると思う。今だから響く言葉とか,あの時だったから理解できる感情だとか。

中学生の頃の私が観るのは,それはそれで何か感じるところはあったのかもしれないけれど。今観たからこそ受けた影響がある。

まだ途中だけど,今感じていることを忘れないうちに書いておく。めちゃくちゃ抽象的で意味不明かもしれないけど備忘録。

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進撃の巨人をここまで観て,私は「なぜ人間は争いあい、傷つけあうのか」が,壮大なスケールと緻密な構成によって描かれてると感じている。どこかですでに何度も言われていることだろうけれど,率直にそう感じた。

身体を傷つけられたら血が出て痛いし,裏切られたり死別したりするのは心が痛い。

キャラクターたちはみんな,そのことをちゃんと身に染みてわかっている。わかった上で、自分に課せられたと信じている使命に従って行動する。一人ひとりそれぞれに,命をかけても良いと思えるほど守りたいものがある。それを脅かすものは,徹底的に排除しようとする。自分の命を簡単に放棄できるほどの絶対的存在があると,それが脅かされた時人間は争い始めるのだ。

これが おかされるなら死んでも良いと思えるほどの存在が彼らをとても強くするけど,反対に弱くもするように思う。全幅の信頼を置いていた何かが消えたとき,何を信じれば良いんかわからなくなって,不安になって迷って苦しむ。

自分を全て委ねられる,自分自身に対する責任を手離せるほど強い存在にすがることは、はたから見ると自己犠牲的で美しく見えるかもしれない。けど,この世界全体の構造を弱くてもろいものにしてしまうのではないか。対立構造が激化するのではないか。

対立するのは避けられないとは思う。同じものでも,違う人のフィルターを通すと全然違うものに見えてしまうから。その上で,自分のフィルターに固執しなければ,心と体から血を流すほどの争いは生まれないはず,と思いたい。自分のフィルターを相手に押し付けたり,相手のフィルターをぶち壊したりしなければ。

考えないといけない。自分が,何を頼りに,何を信じて生きていくのか。そして,そこからちょっと離れたり,時には疑ったりしてみる余裕が必要なんだ。

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