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やりたいことって何よ

やりたいことって何?
どんなことしてるの?
そう言われると言葉に詰まる。

ここ最近、なんで「やりたいことがない」のかをずっと考えていたのだけど、私の場合は本当にやりたいことがないわけではなく、「他人に言えるような」やりたいことがないだけなのだと思う。

毎日無関心にぼーっと生きているわけでもないので、文字どおりに受け取ればやりたいことはあるはず。
なのに堂々と他人に言えるような「やりたいこと」には条件があるからこそ、そういうのって別にないんだよね、としか言えずに終わる。

考えているうちに自分としては結構大事なことに気づいたので、自分の中での賞味期限が切れる前に書き残しておきます。


私が考える、やりたいことの条件

「他人に言えるような」やりたいことには、自分の中での条件がある。
具体的には、以下の一つまたは複数が関係しつつ当てはまってくる。

①仕事
 お金になるものはもちろん、お金にならないこともボランティア「ワーク」というし、同じ括りとして捉えている。

②人の役に立つこと
 「仕事」と内容的には近いが、よりお金の要素やお仕事感を薄くしたもの。

③学び、スキルアップに繋がるもの
 語学の勉強、資格の勉強など。
 学んでいればなんでもよいわけではなく、そこに他の要素「役立つ」「継続できている」なども絡んだ条件な気がする。

④語れる、人に見せられること
 例えば若者が仕事を辞めて日本一周、世界一周することや、人前で歌や踊りなどのパフォーマンスをすること。
 SNSで華やかにアピールできそうなことをイメージしてもらうと分かりやすい。

⑤続けていること、いくらでもやれちゃうこと、その道を究めていること
 幼少期や学生時代から続けている趣味や、時間を忘れて熱中できること。
 専門分野。

それぞれの条件に対する複雑な思い

先ほど挙げた5つの条件は要素として独立しているわけではなく、それぞれがゆるく絡み合いつつ、自分の中での複雑な思いを形成している。

①仕事

現実はそう甘くないのかもしれないが、好きなことを仕事にするって憧れる。
社会人になって本格的に働くことを経験してからというもの、「好きなことを仕事に」という考え方には相当囚われていると思っている。
特に社会人初期の頃は「特に好きでもないことを仕事にしている」状態だったし、そのことにかなり不満を感じていた。

とはいえ、好きなことをしていられたらなんでもいいわけではない。
ここで言う「好きなことをする」とは、動詞としての「する」である。

例えばnoteをちょこちょこ書いているように、私は書くことが好きだ。
しかし、どんな文章でも書くことそれ自体が幸せ、というわけではない。

最近、書く仕事ってどんなものがあるんだろう、と興味本位でクラウドソーシングサイトを覗き見た。
数ページ分案件を見ての感想は、「別に興味ないかも」だった。

私にとって大切なのは、対象への目的や意義を心から理解し、納得できているかどうかである。
仕事の募集は誰かの「やりたい」「やってほしい」であり、自分がそこに価値を感じるとは限らない。
誰かのやりたいことが自分のやりたいこととうまく重なればいいけれど、自分と相手は別の人なわけで、そこがぴったり重なることは少ない。

生活のため、その人との時間を楽しむためといった別の目的があるなら、その人のやりたいことに乗っかるのはありだと思う。
けれども生活に必要なお金プラスアルファを稼ぐために働くなら、他人のやりたいがスタートだったとしても、それが自分のやりたいに重ならなければ意味がないとも思う。
自分がやりたくもないことに業務時間外の限られた時間を使うくらいなら、お金のことなど気にせず遊んでいる方が幸せかもしれない。あくまで私は。

もしかしたら自分の気持ちを脇に置いてまずお金のことを考えてしまうと、心からは楽しめなくなるのかもしれない。

②人の役に立つこと

誰かの・何かの役に立つかどうかは非常に気にするポイントだと思う。
けれども私にとっては、「役に立つ」ことをスタートとしてやりたいことを考えること自体が間違っている気がする。
誰かのためが原動力となる人は素敵だと思うが、私はストレングスファインダーで「自我」が上位資質、かつ強みを最大限に発揮する場合真っ先に「自我」が働く人間である。
(ストレングスファインダーの細かい説明は省きますが、「自我」とは、自分が重要だと思っていることをしたい、自分が重要だと思われたい資質です)
先ほど仕事のところでも述べたように、自分が重要だと感じること、意義があると感じることでないとやらされている感が出て楽しくない。

例えば仕事でマネジメントを経験してみたいと思ったのは、良いチームを作りたいという高尚な思いだけでは決してない。
誰かが決めたことをただやるだけの仕事は面白くないので、自分が決められるだけのポジションを得ようと思ったからでもある。(「決める」という動詞は私の中でとても重要なものだと思う。)

自分のやりたいことは自己満足で完結することが多い。
やりたいことをやって人に喜ばれる、役に立つということもあるらしいとは知っているけれど、自分自身のこととなるとあまり想像できず、どこか他人事と思っている。
誰かの役に立つということは相手の希望に応えるということであり、自分の希望は抑えるもの、自己犠牲を多分に含むものであるという考えがおそらくある。
だから人の役に立つことをスタートにすると楽しくなくなる。心からやりたいと思えなくなる。

他人に言えるようなやりたいことは人の役に立つものであるべき、という考えが自分の中にありながら、人の役に立つことに対して自分自身のモチベーションが高くないのである。

③学び、スキルアップに繋がるもの

今ではだいぶ思い込みが外れたけど、昔は実用性のある学びをすることがよくて、実用性のないものはただの娯楽であるという考えに縛られていた。
だから資格の勉強をしようとして、何度か挫折した。
きちんと受かった資格は勉強しなくても取れたものと、前職の昇任試験くらい。

昇任試験は給料も上がるし、違ったジャンルの部署に挑戦しやすいチャンスでもあるので頑張れた(結局今は別の会社に転職しているけれど)。
私は学ぶこと自体に価値を感じるタイプではなく、実利があるからこそ動けるらしい。
何度も失敗を繰り返したことで、使う機会があるのかもわからない資格の勉強にチャレンジしようとすることはなくなった。

今思えば、資格の勉強をしようとしたのは、前職に不満があったことに対する現実逃避でもあった。
「やりたいこと」の条件としての学びやスキルアップとは、「好きなことを仕事に」という考えに囚われた結果であるように思う。

④語れる、人に見せられること

別に自己満足でやっていることを華々しく発信してもな、と思っている。
ここには自分が「そうすべきではない」と思っていることを軽々とやってのけているように見える人たちへの嫉妬も含まれていることは間違いない。
私は普段SNSをあまり見ないのだが(特に本名でやっているアカウント)、華やかに発信している人に対して自分自身の嫌な感情が渦巻くのに疲れたのも理由として大きい。
(その人が悪いのではなく、完全に自分の問題です。念のため)

何かを発信していくのにあまり向いていないのには、⑤で語る話も大きく関係しているので、ここではあまり詳しく語らず次に移る。

⑤続けていること、いくらでもやれちゃうこと、その道を究めていること

好きなこと、やりたいことは私にとっては一時の「マイブーム」であり、それがずっと続く方が稀だ。
例えば、この記事を書いている時点の自分がやりたいことは、家の中にある不要なものをとことん減らして好きなものだけ残すことや、簡単で美味しいものを作って食べることだったりする。
が、多分3か月も経たないうちに、やりたいことランキング1位は別のことと入れ替わっている。
(モノの整理も自炊も、生活する中でずっと続くこと。けれども「やりたい」ではなく、単に生活するためのタスクとしてやるだけの時期だってある)

私の興味関心には一本通った軸があるわけではない。
ある程度範囲は絞られているけど、それなりにジャンルは多く優先順位もその時々で変わる。
私の興味関心を例えるなら「蔦屋書店 銀座店」だと思っている。
蔦屋書店 銀是店のコンセプトは「アートのある暮らし」。
普通の書店にあるビジネス書や小説、漫画のコーナーは少なく、アートやカルチャーに関わる本を中心に幅広く取り揃えている。
コンセプトに合った雑貨やアート作品の取り扱いもあり、展示される作品はしょっちゅう入れ替わる。
何度来ても飽きない、私のお気に入りスポットである。

「○○をしている人」「○○で生きていく人」みたいにこれというもの、やりたいことがはっきりしている人がもうずっとうらやましい。
自分にはなれないと分かっていても、隣の花は赤く隣の芝生は青い。

好きなことを少数に絞れていないので、はたから見たら何をしている人なのかよく分からない。
SNSでも、何かの専用アカウントを作り運用していくのは苦手で、趣味も日常もごちゃまぜに載せている。
続かないということは、対象についてたいして深められないまま次に行くということでもある。
もっと対象について知っている人、対象への愛が深い人はごまんといる。
だから自分のやりたいこと、好きなことを堂々と人には言えないし、発信などもってのほか、と思っているのである。

とはいえ、興味の範囲がそこそこ広くて飽きっぽいことは、何かを始めることに抵抗がないという長所にもつながっている。
一定の範囲で興味が移り変わる、やりたいことが色々あるのが私。
何か一つのことだけでは語り尽くせないのが私。
いい加減そのことを認めてもいいのでは、とも思っている。

ちなみにタイトル画像は「秋の空」の検索結果から選びました。女心は、ってやつ。

自分の心に素直になってみよう

自分のやりたいことは自己満足で完結することが多い。
やりたいことをやって人に喜ばれたり役に立つなど他人事で、自分自身のこととしては想像がつかない。
誰かの役に立つということは自己犠牲を多分に含むものなので、人の役に立つことをスタートにすると心からやりたいと思えなくなる。

自分がやりたいことをやることがそのまま誰かのためになるなんてありえないと、無意識のうちに決めつけていた。

この記事を書いていて初めて、そのことに気づいた。

別に分かりやすく社会貢献しなくてもいい。
ただ楽しむだけの「やりたい」でいいので、自分のやりたいことにまわりを巻き込んでみてはどうだろう。
自分にとってよかったものを人に勧めるのは抵抗があるけれど、「これがよかった」「これが好き」と独り言を言ってみてはどうだろう。
(相手が実際に発信を受け取るか、行動に結びつけるかは問わない)

年始に書いたやりたいことリストを見返してみたら、予想どおりだったが今のやりたいこととは優先順位が様変わりしていた。
そもそもの話、年始に書いた「やりたいこと」は先ほどの5つの条件にずいぶんと当てはまっている。
自分の心からのやりたいことを、どこかに抑え込んでいないだろうか。
だからリストに書いて実行できていないことがたくさんあるのではないだろうか。

世の中に出ている様々なもの・ことはきっと、誰かの「やりたいこと」の結晶なのだろう。
そしてそれは他人事ではなく、自分もやっていいことなのだ。
そう思ったら、世界の見え方が少しだけ変わるような気がした。

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