読書記_240219

書名:近代美学入門 / 井奥陽子
題名:コンテクストの過剰と崇高論──今日のアーティストに目を向けつつ

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 これは、ちくま新書から出版されている、『近代美学入門』(井奥陽子) の読書レポです (以後この本を『入門』と表記します)。今秋、大学の講義で美学なる学問を知り、『西洋美学史』(小田部胤久)を半分くらい読んだ頃にちょうどこの本が出版されて、気になったので手に取ってみました。帯のターナーの絵を見て、崇高概念の話をしているのかな?と思ったら本当に崇高の解説で引き合いに出されていたので、なんだかクイズに正解したみたいで気持ちよかったです。

 そんな話はどうでもよいですね。この本は、近代以降の西洋美学で生まれた(顕在化した)5つの概念(芸術、芸術家、美、崇高、ピクチャレスク)に焦点を当て、章立ててそれらの概念の変遷を辿る構成になっています。「入門」を謳っているためか、身近な例から議論をはじめ、比較的平易な言葉で書かかれているところに工夫を感じます。また、章の初めに大まかな流れを提示してくれるので、理解の助けになっています(初学者にやさしくてありがたい、、、)。

 この読書レポでは、私が『入門』を読んで気になった「崇高」の概念を取り上げて簡単な説明を加えつつ、思ったことをとりとめもなく述べてみようと思っています。

 まず、美学における「崇高」が何か分からない人の方が多いと思われます(多分)。カントの『判断力批判』に触れて初めて知るくらいでしょうか(多分)。恐らくほとんどの倫理の教科書にも「崇高」の説明は載ってないですよね(多分)。少しだけ「崇高」の説明をしてみようと思います(詳しくは『入門』の第4章にあります)。

 ここでいう「崇高」は普段「崇高な」という形容詞で用いられるイメージと少し違うのかもしれません。もともと「崇高」という言葉はもっぱら修辞学における用語(「崇高体」という文体)だったようですが、美学用語としての「崇高」が誕生したのは近代以降だったそうです。その際立った転換点として挙げられているのが、イギリスの政治家バークの『崇高と美の起源』(1757)です。バークは崇高の概念を美の概念を対置して捉えます。崇高を「自己保存」に関わる感情であると述べ、危険あるいは恐ろしさをその危害が及ばない条件で体験した時、崇高の感情が生まれると主張します。例えば獰猛なライオン、例えば険しい山の風景など。。確かに小奇麗な絵画を見た時に感じる「美しさ」とは、ちょっと違う印象だけど、なんだか「良いな」と感じるものってありますよね。

 『崇高と美の起源』が出版されて少し時が経ち、カントが『判断力批判』を出版します(1970)。『判断力批判』においても崇高概念は取り上げられます。カントは崇高を、「感性では全体は捉えられないけど理性で把握することができるよ!」みたいな体験において生起する感情であると捉え、崇高を二種類に区別しました。一つ目は大きさや数が無限に思えるものによって生じる「数学的崇高」、二つ目は怖いくらいの強大な力を感じさせるものによって生じる「力学的崇高」です。数学的崇高の例として星空や宇宙、力学的崇高の例として荒れた海や火山が挙げられています。実はこの2つの崇高の発生原理は異なるのですが、その説明は省略します(判断力批判そこまで分かってないのにこのレポを書いている)。例に出された「荒れた海」ってまさにターナーの〈難破船〉の絵画を見た時の感じでしょうか。そういえば少し前に国立新美術館がやってた〈テート美術館展〉でターナーの絵が来るよ!って宣伝してた気がするんですけど、その時ターナー知らなかったんですよね。行けばよかったなあ

 そんな話は置いといて、その後の崇高概念について。カント以後も崇高概念はよく議論されていたようです。『入門』では技術的崇高、政治的崇高、抽象的崇高について取り上げられています。「抽象的崇高」は主に現代美術に関わる崇高として紹介されています。現代美術の運動の一つである抽象表現主義では、巨大なキャンパスの全体を均一に覆う表現において、見るものを圧倒させ崇高の感情を発生させるとされています。ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティング〈One: Number31〉が挙げられているのを見たとき、私は驚きと嬉しさがこみ上げてきました。私の感じる崇高感情って、ターナーやフリードリヒの絵より、どちらかといえばこういう絵画に親和性があるので!私は現代美術の中でもアンフォルメル(informel)と呼ばれる類の絵画が、それを見るために美術館に行くほど好きです。初めてサム・フランシスのアンフォルメルを見た時の、何かとてつもない情動が私の中で飽和していく感じを、いまだに覚えています。アメリカで盛んだったアクションペインティングと、フランスにおけるアンフォルメル運動はほぼ同時期に起こった抽象絵画の運動で、その外見も割と(私には)似てみえます。

 という感じで、私が崇高と聞いて呼び起こされるものは「抽象的崇高」に近いのですが、この発生原理として『入門』では、均一的表現が巨大な領域で展開されることで観るものに圧倒的な(空間的)無限性を感じさせるから、と説明しています。本当にそうでしょうか?例えば美術館で作品を見る時と、スマホの画面で同じ作品を見る時では、得られる崇高感情にどれほどの違いがあるでしょうか?確かに美術館で見る方が絵に圧倒されることは確かなのですが、かといってスマホの画面で見た時に崇高感情が発生しないわけでは(私は)ありません。私にとって崇高感情は、何か別の機構で起きているような気がしています(もちろん原因としての無限性は肯定しうると思いますが)。

 先に述べたサム・フランシスのアンフォルメルを、私は東京都現代美術館で開催されていた展示〈被膜虚実/Breathing めぐる呼吸〉で鑑賞しました。 大きな部屋を囲うようにして、サム・フランシスによる複数のアンフォルメル作品が展示されていたのを覚えています。実はこの展示に行く当初の目的は、今日活躍する日本のあるアーティストの作品を鑑賞するためでした。次回の読書記では、そのアーティストの作品を紹介しながら、崇高の発生原理を改めて考えようと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

(続きこちらです)

[近代美学入門]

 


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