読書記_240221

書名:近代美学入門 / 井奥陽子
題名:コンテクストの過剰と崇高論──今日のアーティストに目を向けつつ

<#2>

 これは、ちくま新書から出版されている、『近代美学入門』(井奥陽子)の読書レポです (以後この本を『入門』と表記します)。前回に引き続き、このレポでは『入門』の内容に触れながら、考えたことをとりとめもなく述べていこうと思います。

(前回のレポはこちら)

 前回は美学における崇高概念とその変遷について見ました。前回の議論を踏まえつつ、今回は具体的な作品を見ながら崇高概念について再考してみようと思います。

 前回のレポは、現代アートにおける「抽象的崇高」について取り上げ、その発生原理として挙げられている空間的無限性について懐疑を向けるところで終わっています。私には何か別の発生原理があるように思われるのです(表題からお察しかもしれませんが)。私がそう考えるきっかけになったのは、先に紹介した東京都現代美術館〈被膜虚実/Breathing めぐる呼吸〉で展示され、私がそこに行く目的だったところの作品、梅沢和木(1985-)さんの〈とある現実の超風景 2018 ver.〉です。この作品の観察と共に、崇高概念について考えてみたいと思います。

 梅沢和木さんは日本を中心に活動中のアーティストです。ゲームやアニメ、インターネットにおける(キャラクター)画像によって構成される高密度なコラージュが梅沢さんの作品の特徴だと思います。「梅ラボ」名義でツイッター(私は意地でもツイッターと呼ぶ)を開設されているので、何気なく眺めるTLで作品を見かけたことのある人も多いのではないでしょうか(私が梅沢さんを知ったきっかけもツイッターの投稿です)。

 
 結構頻繁に展示会(?)をされていて、7月にNADiffで開催された個展〈Beyond the Windows〉だったり、あるいはかなり前にあったオープンアトリエには伺うことができました。キャンバス全体に飽和するイメージの破片が、途轍もないエネルギーをもった一つの塊として私に向かってくるようで、いつ見ても圧倒されてしまいます。

 さて今回は〈とある現実の超風景 2018 ver. 〉に焦点を絞って話を進めます(僕の力量では全ての作品に目を向けるのに無理があるため)。私が〈被膜虚実〉で見たものは、2011年に制作された〈とある現実の超風景〉の再制作されたヴァージョンです。東日本大震災への応答として制作されたこの作品は、その背景として震災で破壊された市街の風景が用いられています。現実側の風景と仮想現実側の画像をミックスし始めたのはこの頃からのようで、現実の震災を通してインターネットの環境も変わっていったという、キャラクター画像をはじめ仮想世界に執心してきた梅沢さんだからこそ切に感じる二世界の連関への感慨が、この作品には反映されているのかもしれません。(以下のブログでは、梅沢さん自身がこの作品について語っています)


 梅沢さんの作品については、そのモチーフとなる仮想現実性(画像・キャラクター)について、あるいはそれらと現実世界の結びつきに主眼を置いて分析されることが多いような気がします(多分)。その視点での深堀りは僕もすべきなのですが、今回は回避します(色んな方々がしてるだろうし)。その代わりに、この作品で展開されるコラージュの「密度の濃さ」に注目して、前回行った崇高論の考察と結び付けたいと思います。

 〈とある現実の超風景 2018ver. 〉を一目みて分かるように、この作品にはたくさんの画像の断片が、それこそ雑然と積まれた瓦礫のように立ち現れています。その断片のそれぞれは、その姿形すら判然としないものから、分かりやすい特徴を備えたものまでさまざまです。一つ一つ細かく見てみたくなりますよね。個人的に目に残るのはキュウべえの眼と鹿目まどかの後髪です。まどマギの最終回と震災発生がちょうど同じくらいの時期だったことが思い出されます。(ワルプルギスの廻天楽しみですね。)

 私には、この「細かく見る」という行為が、この作品で受け取る感慨(僕がこれから崇高感情と言い換えようとしているもの)のトリガーなのではないかと思っています。「細かく見る」というとき、人は何を見たり、あるいは想像したりしているのでしょうか。このことを、ドイツの哲学者ハイデガー(1889-1976)の議論を元に考えてみます。

 ハイデガーは、全ての存在者は「~をするための」ものとして、つまり、別の存在者を何らかの意味で指示するという形において存在すると考えました。世界はそういった存在者から存在者への指示のネットワーク(道具的連関)を備えている(世界の形式としての有意味性)。例えば、ペンはノートにメモを取るために、手で持つために、芯を補充するために、など。この道具的連関に基づけば、(道具的)存在者を理解すること、つまり存在の意味を了承することとは、別の存在者との道具的連関を把握することだ、ということが言えるでしょう。

 ここからは私の意見なのですが、一方、絵画作品において描写されている物体は、そうした連関の文脈を切り取られた形で、いわば絵の中に放り出されています。それらの存在を理解すること(=細かく見ること)とは、存在者と、その存在が指示するであろう別の存在者によるネットワークを自力で展開することだと言えるのではないでしょうか。ここで展開されるネットワークは、(私が想像する)作者にとってのネットワークかもしれないし、あるいは見る私にとってのネットワークかもしれない。そして、〈とある現実の超風景 2018 ver. 〉においては、そうした存在者たちが画像の断片の形で途轍もない量でキャンバスに配置され、そのそれぞれがキャンバス外の莫大な数の存在者を指示していく。〈とある現実の超風景 2018 ver. 〉という空間的には有限であるはずの作品を見ようとする人の中で展開されるのは、気が遠くなるほどの、圧倒的で莫大な、存在者たちの連関である。この作品における個々の画像の断片が展開するネットワークは、その断片のもつ「コンテクスト」とも言い換えることができるでしょう。〈とある現実の超風景 2018 ver. 〉はその超高密度なコラージュによって、あまりにも過剰なコンテクストを孕んでいる、と言えるのではないでしょうか。

 この作品を見る時に起こる感情が、先述した崇高感情の類なのではないかと私は思っています。理解の範疇を軽く超えてしまう程、あまりにも莫大な量のコンテクストが見る人の中で飽和していく。この展開するコンテクストの「無限性(無限を感じさせる性質)」は、崇高感情を発生させるものではないでしょうか。そしてこれは、「抽象的崇高」とは原理的に異なるものだと思います。ここでいう無限性は、空間においてではなく、コンテクストの量において発生しているからです。また、カントのいう「数学的崇高」は大きさや数の無限性を発生原因とし、その例として星空や宇宙を挙げていますが、〈とある現実の超風景 2018 ver. 〉における崇高感情は、その用いられる素材の数そのものというより、むしろそれらが喚起するコンテクストの膨大さに起因しているように感じるのです(例えば、星空を見る時、その数多の星の各々がコンテクストを喚起することはなしに、崇高を感じることができるでしょう)。〈とある現実の超風景 2018 ver. 〉では、こうしたコンテクストの過剰が独自の崇高感情を生み出しているのだと、私は考えます。

 ここまで、『入門』の読書レポとして、崇高概念の変遷を辿りながら、実際に〈とある現実の超風景 2018 ver. 〉という作品を参照しながら「コンテクスト過剰の崇高」概念を考えてみました。かなり粗い議論をしたと思っています。カントの『判断力批判』も、ハイデガーの『存在と時間』も、解説書を読んだだけで引用したので、色んな議論の穴が考えられます。特に、画像という仮想の物体を、道具的存在者とみなしてハイデガーの議論を引用するのは、かなり早計だと感じています。恐らくメディア論を参照すべきです。

 また『入門』の感想としては、私は『西洋美学史』(小田部胤久)を半分読んでから手をつけたのですが、『入門』を先に読んである程度美学史の流れをつかんでから『西洋美学史』を読むと良かったのかもしれないと思いました。ちなみに『入門』の読書紹介にはしっかり『西洋美学史』が記載されています。その他の文献も多く紹介されているので、読んだ後の道案内もサポートしてくれています(ありがたい、、)。

今回の『入門』読書レポは以上です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

[近代美学入門]


(以降は余談です)今回は梅沢和木さんの作品を紹介しましたが、取り上げたかったアーティストの方々はその他にもいました。構成の事情で取り上げられなかった、、、その方々を推して終わろうと思います。いきたゆず。さん。この方のコラージュが好きで、浪人時によくツイッターで見ていた記憶があります。新宿眼科画廊での展示〈少女、空を行くがごとき〉はこの方の作品を見るために行って、実際に在廊されていたのですが、コミュ障すぎて話しかけられなかった。

 LILY FLAYさん。バズりがちでは?アニメキャラクターや言葉、風景などのさまざまな断片を散りばめていますが、同時に清潔なアンニュイさ?とでも言えるような独特な統一感を兼ね備えています。好き。どこかで展示等されているのでしょうか(素材の権利的に厳しいか)

改めて以上です。総計6500字くらいのお気持ち文章が生成されて悲しい。ありがとうございました。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?