第20章 「原体験 VS 統計学」
「学問こそが最高の娯楽である」シリーズの第20章。このシリーズは毎週土曜日18時前後にアップします。
前回は感情論に関して書きましたが、今回はもう少し踏み込んだ内容を書きます。
1. 株を守りて兎を待つ
トップのイラストは、良いフリー素材がなかったので、自分で書いちゃったんですが、有名なことわざをイメージした絵になっています。
これは、「たまたまウサギが切り株に頭をぶつけて即死したところに通りかかって、ウサギの肉にありつけた農夫が、それ以降は農作業をやめて、切り株の前をずっと見張って再びウサギが頭をぶつけるのを待つようになった。」という故事に由来することわざです。
これは、要するに「たまたま成功した経験にこだわるマヌケな様子」を揶揄した教訓なわけです。
ま、普通に考えてバカですよね。
でもね。
多くの人は、こういう「実際の体験」の呪縛にとらわれがちなんです。
実際の体験の中でも、特にその人の思想形成に大きく影響するもの「原体験」などと呼んだりします。
正直、私もそうですし、はっきり言って、偉そうにしている自称インテリも原体験にとらわれる人は多いです。
最近、ネット上に玉石混合な医療情報があふれるようになって、エビデンスの重要性が叫ばれるようになってきました。
英語の「evidence」は「証拠」という和訳が当てられますが、どちらかというと「科学的根拠」と言った方が正しいでしょう。
というのも、全然科学的じゃない偶然の結果(体験)を持ってきて、「ほら、これが証拠です」という人があまりにも多いからです。
これはまさに、「この切り株で実際にウサギが頭をぶつけて死んだんだ!この切り株はウサギをひきつける効果がある!」と言っているのとほぼ同じです。
2. 統計的に優位な差って?
医学は、基礎的な化学や物理学に比べてはるかに複雑な現象を扱うので、実験結果が綺麗に出ることは少なく、統計的な解析が物凄く重要になってきます。
統計的に優位な結果(evidence)が得られて、はじめて科学的に正しいと認められます。
「理屈としては合っているはずだ」なんてのは根拠としては認められません。
例えば、ある病気の患者さんに、新しく開発された「効くはずの薬」を投与してみて、実際に治ったとします。
普通に考えると、「薬が効いた!」と思ってしまいますよね?
でも、これは科学的根拠とはなりません。
なぜなら、ざっと考えただけでも以下のような要素が考えられるからです。
① たまたまその人の自然治癒力で治っただけで、薬は関係ない
② 「薬の効果」ではなく、「薬を飲んだ」という行為が治癒に影響した(プラセボ効果という)
③ 薬とは関係ない、他の環境要因で治った
こういった要素(交絡因子という)を1つ1つ検証して、統計的な解析を行ったうえで差が認められた場合に、はじめて科学的根拠となるのです。
よくインチキ商法の広告で「効果には個人差があります」なんて書かれていることがありますよね。
これ、ようするに「効果はないです」と言っているのと同じです。
「効果には個人差があります」=「効果はないです」と覚えましょう。
「それは言い過ぎじゃね?」と思うかもしれませんが、事実です。
「個人差」というと、「効く人と効かない人がいる」と思ってしまいがちですが、この手の広告では実は全然違います。
「効かない人もいるけど、効く人にはちゃんと効く」という、本当の意味での個人差の場合は、ちゃんと「統計的に有意な差」として出てきます。
わかりやすいように、単純なモデルで解説します。
例えば、10人に1人しか効かない薬があったとします。これは個人差ですね。
一方で、100人に1人は自然に治癒する病気だったとします。これも個人差です。
1000人の患者で検証してみましょう。
500人は薬を試すグループ、残りの500人は薬を試さないグループにわけます。
すると、こうなります。
薬を試すグループでは、500人中446人は残念ながら治りませんが、49人は薬が効いて治ります。残り5人は自然に治ります。
薬が効いて治った49人と薬が効かなかった446人の差が「薬の効果の個人差」です。
一方、薬を試さないグループでは、500人中495人が治りませんが、5人は自然に治ります。
これは「薬の効果の個人差」ではないのは一目瞭然ですね。
薬の効果とは全く関係のない、ただの病気の治りやすさの個人差です。
薬を試したグループでも、同じように自然に治る人が5人います。
そして、「効果には個人差があります」と言っている広告は、基本的に自然に治った5人を紹介して、「ほら、効いたでしょ?」と言っているわけです。
なぜなら、統計的に優位な効果が認められて認可された薬であれば、そんな断りの文言を入れる必要がないからです。
もっと具体的な数字で「〇〇人に△△人の割合で効果が得られる(あるいは、得られないない場合がある)」などと書かれます。
薬の効果に個人差があるのは当たり前ですが、そういうのも全部ひっくるめてちゃんと検証しているのが「科学的根拠(エビデンス)」です。
3. 原体験の壁
それでもやっぱり、「原体験」による思考の呪縛を乗り越えるのは簡単な事ではありません。
例えば「たまたま切り株に頭をぶつけたウサギを見た」経験にこだわる人はバカですが、それが2回続いたらどうでしょう?
それがたまたま同じ切り株だったら?
例を変えてみましょう。
いつもはジーンズには白いスニーカーを合わせていたのに、たまたま赤い靴を履いて家を出たときに交通事故に遭ったら?
しかも、それが偶然2回続いたら?
赤い靴を履くことを躊躇しませんか?
まあ、別に躊躇しない人もいるでしょう。
こういうものはジンクスですからね。
それでも、やはり確率論や統計学に信頼することができる人というのは、そこになんらかの成功体験がある人なんですよね。
結局、どっちも原体験が基本なんです。
逆の例で考えてみましょう。
車ではシートベルトをしておいたほうが絶対によいですよね。
でも、シートベルトをせずに死んだ人が実際に身近にいる場合と、いない場合では、実感は天と地ほども違います。
喫煙は色んな病気を誘発しますが、例えば脳卒中や心筋梗塞のリスクが大幅に高まります。
しかし、全員がそうなるわけではないので、身近にそうなった人がいるのといないのとでは認識が大きく変わります。
過去の経験の印象が強烈であるほど、その呪縛を乗り越えるのは容易ではありません。
反ワクチン運動も同じです。
はじめてのワクチンを打って、体調が悪くなった人がいたとして、それが科学的にはワクチンと関係ない偶然だったとしても、その人にとって「ワクチンを打った後、体調が悪くなった」ということはまぎれもない事実なんです。
客観的に見てバカげたことに見えたとしても、その人の原体験を覆すのは難しい、というより、そういう原体験を覆すことができるのは、結局は実体験の積み重ねだけではないかと思います。
科学的根拠を無視する医者が出てくるのも、こういうことが関係しているのではないでしょうか。(もちろん、本人の性格もあるでしょうが)
4. 実体験と科学的根拠はどちらも必要
「衝動」なんていう言葉がありますが、人が習慣以外の行動を起こすには、それなりのエネルギー、衝動が必要ですよね。
ようするに結局、人を動かすのは感情なんです。
やろうと思うか思わないか。
科学的根拠を示すことや、その科学的根拠の意味を丁寧に説明することも大事ですが、正面突破だけではやっぱりダメです。
実際に体験させることが大事。
体験させるには、まず「やろう」と思ってもらう必要がある。
そういう感情を引き起こさせるには、「この人の言うことなら信用できる」と思わせる必要がありますよね。
それは、公になってる実績だったり、肩書きだったり、あるいは実際の人間関係だったりします。
一番大切なのは、やはり直接的な人間関係じゃないですかね?
まあ、偉そうに言ってますが、私が一番苦手な分野です。
人間関係力というのは、結局は他者に対する想像力ですよね。
そして、想像力というのは実体験に基づくものです。
そういう意味でも、実体験ってめちゃめちゃ大事だなあと思います。
とにかく行動して実体験を積み重ねることと、科学的に考えること、どっちもめちゃ大事ですね。
やっぱ学問っておもろい。
以上です。
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