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『窮鼠はチーズの夢を見る』 〜心底惚れるって

行定勲監督の最新作ということで、早速見てきました。成田さん演じる今ヶ瀬へ強く感情移入させられつつ、行定監督の美しい陰影と機微のある演出が胸に残る素敵な作品でした。
原作は水城せとなさんの漫画『窮鼠はチーズの夢をみる』『俎上の鯉は二度跳ねる』。これを機会に原作も読みました。

学生時代から「自分を好きになってくれる女性」ばかりと受け身の恋愛を繰り返してきた、大伴恭一。ある日、大学の後輩・今ヶ瀬渉と7年ぶりに再会。「昔からずっと好きだった」と突然想いを告げられる。戸惑いを隠せない恭一だったが、今ヶ瀬のペースに乗せられ、ふたりは一緒に暮らすことに。ただひたすらまっすぐな想いに、恭一も少しずつ心を開いていき…。しかし、恭一の昔の恋人・夏生が現れ、二人の関係が変わりはじめてゆく。

映画『窮鼠はチーズの夢を見る』公式サイト あらすじより

(以下、ネタバレを含みます)

◆大伴恭一の不用意さ

八方美人というほど主体性はなく、常に相手の出方を待って反応するように生きる大伴と、その大伴に対して、学生時代の一目惚れからゆうに10年も片想いを続ける今ヶ瀬。大伴は常に相手の出方を待つがゆえに周りの人を良く見ているものの(例えば同僚の妻の好みまで把握していたりする)、そこから自分に向けられる好意には鈍感で、その鈍さが不用意に人を傷つけているように見える。ゆえに、大伴は結婚していながら他の女性との逢瀬を重ね、大事にしたいと公言している妻からは「他に好きな男性がいる」と言われるまで妻の変化に気づけない人でもある。
そんな大伴の不用意は女性関係だけでなく男性に対しても同様で、ほかの女性との逢瀬を嗅ぎつけた探偵の今ヶ瀬に対し、今ヶ瀬がゲイであると分からないうちは「男なら分かるだろ」と自らの不貞を隠すよう仲間意識に訴えるも、その後、今ヶ瀬が自分に好意を持っていることを知ると「普通の男にはできないよ」と一線引く発言を平然としてしまう。
他者に興味がないのかしらと思っていたけれど、そうであれば、あれ程周囲に目は配らないだろうから、寂しがりやな一方、深く人とかかわって傷ついた経験でもあるのだろうかと邪推してしまうほど、こうなった彼の背景が気になる。

◆窮鼠の逃げと猫の優しさ

多くの女性から無言の攻めを受け、今ヶ瀬からは熱烈な愛情を受け、それゆえに社会からは暗黙の視線を受け、どれからもその場しのぎで逃げるように生きる大伴はまさに窮鼠の様。その人柄や周囲の状況をすべて踏まえて、策を凝らしつつも追い詰めすぎないよう逃げ道を作る。
その優しさから、今ヶ瀬がいつも横目でだけ大伴を愛しそうに眺めていたのではないかなと思う。少し首をかしげ、手を頭に添えながら。だからこそ大伴と今ヶ瀬が別れる際に「何もいらないから傍において」と捨て身で言い募るシーンや、別れた後に来る海辺で今ヶ瀬が逃げ続けた窮鼠を真正面から見据えるシーンは今ヶ瀬の覚悟を感じさせられる。
こんな今ヶ瀬の健気さに胸が詰まるシーンの多いこと。今ヶ瀬が大伴に耳かきをするシーン。2人が太陽の下で、屋上で過ごすシーン。誕生日にワインを貰い「来年またあげるから今回は飲もう」と大伴から言われ、見ている側が悶えるほどの無邪気な笑みを浮かべる今ヶ瀬のシーン。どれも2人きりで閉じ込められた空間だからこそ成立する穏やかなシーンは幸せに溢れている。だからこそ第三者が入った途端にその幸せが崩壊するのを目にすることが苦しい。
例えば、それは道で2人が腕を組んだ瞬間に女性の視線を感じて腕を話すシーン。(予告でも描かれている)「私か今ヶ瀬、もしかして選べないの?女と男だよ」と当然のように異性愛を前提とした会話がなされるシーン。

◆煙草と灰皿

そんな狂おしいシーンで今ヶ瀬が煙草を吸っているのを目にすると、今ヶ瀬は大伴から学生時代にもらったライターを使って煙草を吸っていて、あたかも大伴に近づくための小道具として存在しているように見えるが、胸の内にある言葉や思いを飲み込み、まるで代わり煙を吐き出しているかのように見える。まるで、大伴といる限り煙草が手放せないのではないかと思わされてしまう。
今ヶ瀬の伝えられない言葉や想いは煙草の吸殻となってどんどん灰皿に溜まっていく。その掃除をするのも、捨てるのも今ヶ瀬だけ。
そういえば、灰皿が耳型をしているのは印象的だった。今ヶ瀬が大伴の耳かきをする映像と相まって、なんだか今ヶ瀬ばかりが努力をして、自らの言葉や想いを封じながらも、大伴は言葉や想いで押しつぶされないよう身綺麗にするのを保とうとしているように見えて、いじらしさが募る。(この映画は本当に今ヶ瀬への愛情が募る作品だと思う)
だからこそ、ラストシーンで、大伴が耳型の灰皿をゴミ箱から拾い上げ、丁寧に洗うシーンが見られて、救われたような想いがした。(今ヶ瀬がださいと言った、大伴の元婚約者が選んだカーテンもしれっと元に戻されていたりする。こういう機微を映されるのが良いなと思う)

◆行定監督の作品

行定監督に対して陰影をとても美しく利用する印象を持っていて、今回は特に朝夕や天候といった自然光が美しかったなと感じさせられた。最初、大伴と今ヶ瀬が再会するシーンはビジネスライクだったためか太陽の下で始まるものの、その後は出歩くのも家にいるのも、まるで身を隠すような夜ばかり(例外は2人きりの世界で寛ぐ屋上シーン)。初めて身体を重ねるシーンは雷雨でさえある。2人が別れを決めドライブした先の海は朝焼けで、最後、大伴が今ヶ瀬を待つシーンは再び太陽の下となる。徐々に光が差し込むかのように明るい描写が増えることで、最後2人の再会が叶うかの判断は観客に委ねられたが、個人的に明るい未来の見えるラストシーンだと受け取れた。

そんな陰影の対比に加えて、ベッドシーンの対比も意図して描かれていたのかしらと思う。大伴が女性と夜を共にするシーンはずいぶん生々しい肉欲が表現されていたが、大伴と今ヶ瀬のそれは陰影があって情緒的に見えた。大伴と今ヶ瀬が初めて身体を重ねるシーンで、画面の奥のテレビでひっそり映るモノクロ映画に「理解しようとしなくていい」といった字幕があり、今ヶ瀬が言う「(大伴を好きなことに)理由なんてないでしょ」「心底惚れるって、全てにおいてその人だけが例外になっちゃうってことなんですね」と相まって、情が掻き立てられるシーンだった。
(それにしても今ヶ瀬以外が男性も女性も魅力的に見えない不思議。そして行定監督繋がりという意味で、普段はキラキラされているジャニーズ大倉さん演じる大伴の目が死んでいる演技は、ナラタージュで松本さん演じる葉山の目を思い出させる)

個人的に好きだったのは、大伴と大伴の以前の恋人・夏生、今ヶ瀬と今ヶ瀬の以前の恋人が4人でテーブルを囲んでいるシーン。周囲から見ると楽し気な様子に伺えるが、実際は相互に目を配り合っているという1人ひとりの目に乗った感情やその目の動かし方といったら。人ってこういうところがあると多分に共感させられる印象深い演出だった。

◆心底惚れるって、全てにおいてその人だけが例外になっちゃうってこと

おそらく本作の印象深い台詞の1つだと思う。好きにならない方がいい、好きでいるのを止めたい、そう思っていても人は自分の感情を押し込めることは出来ても無くすことはできない。自分の意志とは関係なく、引き出される感情に突き動かされている様は、きっと他者にはどうしても理解できない。おそらく自分自身でさえ、完全には理解しきれない、受け止めきれない経験であり、あたかも自分が再構築されるような感覚なのではないだろうか。
だからこそ、そんな人との出会いは、性別や国籍や年齢など、あらゆるカテゴリーを超えて「例外」として扱わざるを得ないように思える。
新たな婚約者が、大伴の家の今ヶ瀬が座り込んでいた椅子に腰かけたとき、自らの方に呼び寄せることで椅子に座らせるのを回避させたとき、今ヶ瀬が椅子からベッドの大伴を眺めていたように、大伴はベッドから椅子に背を丸めて足を抱え込むように座る今ヶ瀬を見つめていたんだなと気づかされた。ゲイの集まるお店へ行って疎外感を感じて気づいたように、こうした違和感の積み重ねで、大伴は今ヶ瀬が「例外」であることを自覚していったように思う。

◆現代における恋愛を描く作品とボーイズラブ作品

(大伴も今ヶ瀬も社会人なので、ボーイという表現を使うことに多大なる違和感があるのだけれど)「おっさんずラブ」や「きのう何食べた?」など男性同士のコミカルな恋愛や生活を描く一般向け作品は増えたけれど、こんな真正面に純粋に恋愛で自分が壊される様子に向き合う作品は大々的には珍しいように思う。
同性だからこそ周囲の暗黙の目線に追い詰められる部分はありつつ、相手への愛や信頼が揺れ動く様は異性間でも同様に通じ合うものがある。とはいえ、男女に置き換えてこのストーリーを描くと、行定監督も言うとおり「きっとかったるくなってしまう」。それはやっぱり現代の社会的な関係性の違いから来る葛藤があるからこそであり、以前の社会で言えば政略結婚と恋人との間で揺れ動く恋愛を描くことに通じるものがある。山あり谷ありの恋愛は時代ごとにテーマや対象を変えつつ、人びとの心に求めるものがあるということだろう。

恋愛は「例外」を見つけること、「例外」を理解することでもある。いつの世も、誰でも、「例外」と共に生きることを、私はこの恋愛映画から教えてもらった。


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