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ごきげん雑駁①

ごきげんなサバイブを模索する雑誌『ZINEアカミミ』の第二号をリリースしました。特集テーマは「ごきげん」です。

昨年11月の文学フリマ東京で創刊号を発表し、その打ち上げの席ですでにこの特集テーマに決まっていましたが、いまこの状況の中で、自分で自分の「ごきげん」をとっていくためにはどうすればいいのか、という問いはアクチュアルなものになってしまったように思います。

以下の文章は寄稿者の皆さんに共有していた、編集長柿内の「ごきげん」にまつわる雑駁な覚書です。書かれたのは今年の始めごろだったかと思います。

この雑誌を作るときにあった気分は、今の気分と実はそんなに変わってもいないんじゃないかな、といま読み返してすこし思いました。

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ごきげん特集を組むにあたり、自分でこのテーマを掲げておきながらなんだが「ごきげん」という言葉がはらむ危険について書いておきたい。

政治も経済も信じらないほど下品でお粗末で、テレビもインターネットもろくでもない。もはやなにひとつ信じられるものはない。そうなると信じられるのは、己の実感だけだ、そういう気分が、もう何年も蔓延している。ポスト・トゥルースという言葉と、お気持ち至上主義という言葉がだいたい同時期に発明されたのは、それなりに関連があるんじゃないだろうか。つまり、事実や論理的整合性よりも、個々人の実感=お気持ちが優位に置かれるような文脈があるのかもしれない。そして僕たちの「ごきげん」は、ともするとこの文脈に与することになる。

「ごきげん」と「お気持ち」は分けなくてはいけない。後者を「快至上主義」と言い換えてもいい。不快はいつでも悪で、ただ気持ちがよければそれでいいというような考え方だ。

たとえば電車やスーパー、あるいは家のリビングに至るまで、僕たちは一人では生きていけない以上、不特定多数の他人たちと場や仕組みを共有して利用する必要がある。そうした共用が不可避であれば、自分にとって不快な目に遭うこともまた不可避であるはずだ。隣に座った人の息が臭いかもしれない。同居人のかけた音楽が全く好みじゃないかもしれない。もしくはただなんとなく嫌いな人というのがいる。そういう人と一緒にいなくちゃいけない状況だっていくらでもありうる。こうしたとき、「お気持ち=快至上主義」にとってお気持ちを害する要素はすべて悪なので、息の臭い人や、音楽のセンスが酷い人や、なんとなく波長の合わない人は、簡単に排除してもいい人たちになりうる。なぜなら、これらの人々は私にとって不快で、気持ちのよさを踏みにじるものだからだ。

お気持ちを至上とする主義、快・不快が価値判断の要にある人たちは、即ち思いやりのない排外主義者であるなどと言うつもりはない。むしろそうした人たちも、他者への配慮に満ちた、思いやりのある人であることのほうが多いのではないかと思う。問題なのは、そうしたお気持ち至上主義者にとって他者に配慮するということは、他者の快・不快に配慮することとほぼイコールであることだ。
「他人様に不快な思いをさせないように。自分も気持ちよく過ごしていきたいのだから。」
そうした他者への配慮は、簡単に自分自身の抑圧へとすり替わっていく。そうして自身が不快を感じたとき、なぜ自分はこんなにも他者に配慮しているのにこいつは私の気持ちに配慮してくれないんだろう、という不満を呼び寄せる。たいていの憎悪は、なぜ自分だけ、なぜあの人だけ、という理不尽への怒りの宛先を探すことから始まるように思う。僕たちはなかなかこの意味のない理不尽を受け入れられない。どうにかして自分を納得させたくて物語を探す。でも、たいてい理不尽に原因などないのだし、不快な現実は意味も必然性もなくただあるものなのだ。不快であることを理由に排除を進めていくと、最後は何も残らない。誰もが誰かにとっての不快でありうるのだから。

「ごきげん」を掲げることが、自分の「ごきげん」を脅かすものは全部否定するというような結論を導いてはいけない。そのためにはおそらく不機嫌を否定しすぎないこと。各々の「ごきげん」は極めてパーソナルなものであり不可侵であるのは当然なのだが、それでもうっかり踏みつけにされることがあること。このあたりが重要になってくるように考えている。特に後者。僕たちは十全にわかりあうことなんてありえないのだから、相手の「ごきげん」の全容をパーフェクトに把握してケアすることなんかできるはずがない。まちがえて地雷を踏みぬいてしまったときは、相手の言うことをよく聴いて、納得したりしなかったりしながら、ごめんね、これからは気をつけるね、と言って終わらせる、そういういい加減さが大事なのではないだろうか。

厳密でストイックな追及は「ごきげん」に合わない。適当、ずぼら、中途半端、横着。そうしたいい加減さをある程度屈託なく肯定すること。そこに、「ごきげん」の居場所はあるような気がしている。この「ある程度」の設定が、おそらくかなり難しいのだけど。

僕たちはいつだってニコニコしていられるわけじゃない。ときには不愉快な思いをして、そのことに怒ったり悲しんだりする。怒りや悲しみがあってしまうことは、それ自体はもうどうしようもない。あったことをなかったことにはできない。だからせめて、怒ったら怒ったことを悲しんだら悲しいことを、きちんと伝える工夫をしてみる。それで何が解決するわけではないが、伝達して外在化することで、愉快ではない思いや怒りといったお気持ちを内面化しないで済むだろう。そうやってはなから完璧ではない快適さを、それでもなんとなく維持していく。このやりくりの「ある程度」を、いまもずっと考えている。


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おのおのの「ごきげん」との向き合い方を問う雑誌、『ZINEアカミミ 第二号』が本屋B&B のオンラインストアにて、販売開始です!
合わせて創刊号のデジタル版もリリースしました。ぜひー。

20200427追記:H.A.Bookstore「H.A.Bノ通販」でも販売開始しました!