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『正義』考察

ずとまよの曲のMVをYouTubeで観ながら、コメント欄に目を通すのがおもしろくて、いろんなコメントを見ることがあるんですが、中でも非常に印象的だったのが、正義のコメント欄にあった『「つま先だって」は「妻先立って」になる』というものでした。
なるほどと思いながら、切ないけれどもアップテンポでグルーヴィーな曲調とどう関係しているのかな、などと考えていたのを覚えています。

話は変わりますが、女性雑誌のVOGUE6月号(2021年)にACAねさんのインタビューが掲載されたのをご存知でしょうか?雑誌自体はもう売られていない(ネットでは買えるようです)のですが、ACAねさんのインタビューはここから見ることができます。まだの方はぜひ読んでください。

私はこのインタビューを読んだとき、強い衝撃を受けました。実はACAねさんの曲を考察するヒントが書かれてあったからです。本文の中に『表現活動におけるインスピレーションは「日常、生活、些細な疑問、アニメ漫画」』『楽曲には、深い孤独がエネルギーとなっているような描写が滲む』と書いてある部分があるんですよ。勘冴えて悔しいわってACAねさんが経験したいじめを表現してるんですよね。それと同じようにACAねさんの経験を元に作曲されたと仮定して考察してみると、ハッとすることがたくさん出てきて、いろんな曲の意味や曲と曲の繋がりがわかってきたような気がしたんです。心の準備ができた方はどうぞ読み進めてください。

つま先だって わからないのさ
そっと芽を合わして仕舞えば
仕舞うほど花びら散って
ただ体育座りして 抗ってる君と並んで
手を振る今日は 僕と君に近づきたいから

つま先だって=妻先立ってどうすればいいのかわからないんだ…これは妻を亡くした男性の話みたいなんですが、これはACAねさんのお父さんのことなんじゃないかなと思いました。もしそうだとしたら、とても深い悲しみや、お父さんもお母さんを亡くしてショックを受けているから、泣き言を言って悲しませたくないっていうACAねさんの気持ちが伝わってきます。芽を合わして=目を合わしてしまうと(花びらに例えて)涙が零れる。(芽と花びら、植物に例えているのが素敵ですね)
あと、「つま先だって」には、つま先立って背伸びしたい思春期の君という意味や、つま先立つと背が越されるくらいの年頃になった君という意味、つま先ですら分からない、一寸先は闇のような全く何を考えてるのか分からない君という意味も含まれていそうです。
年頃の君(ACAねさん)は思っていることも素直に言えないから、そっと寄り添って近づきたいよ。ここではお父さんとACAねさんの双方がお互いに近づきたい、と思っているように見えます。なぜなら「僕と君に近づきたいから」という歌詞から、「僕が君に」や「君が僕に」という一方的な思いではないことを表現しているように感じたからです。

赤い瞳が ぼやける音 耳障りな声で 君と歌うけれど
深い昼寝の温度に慣れてくの?
飛び跳ねた笑みだけ 間違いそうもなくて

赤い瞳とは泣きじゃくった後の真っ赤に腫れた目でしょうか。その赤い目がぼやける=少しずつ白くなる、つまり元通りになるまでお父さんは君と一緒に歌を歌うよ。お母さんとは違うお父さんの温もりにだんだん慣れるのかな?無邪気に飛び跳ねたときの笑顔は取り繕ったものじゃなさそうだね…
この「耳障りな声」ですが、お母さんとの対比になっていると思います。余談ですが、ACAねさんのお母さんは音楽が好きな人だったようで、ACAねさんが音楽の道を志すきっかけになったみたいです。ACAねさんの音楽の造詣の深さはお母さんの影響が大きかったと思われます。このツイートを見てください。

小学生の頃の話のツイートを見た時は驚きました。ACAねさんが作る曲って1つのジャンルにとらわれてないなくて、しかも洋楽からインスパイアされたメロディーのものが多く見られます。音楽好き、洋楽好きなお母さんの影響でしょうね。ACAねさんが作る音楽のルーツはお母さんだと言っても過言ではないでしょう。
「母譲り」というのは「めいけんチーズの物真似よくしてた」というツイートに対するファンのリプライへのリプライなんですね。これはACAねさんのお母さんが物真似や歌を歌うのが非常に上手かったことを指していると思われます。そのお母さんと違うお父さんの声、普段聴かないお父さんの声を「耳障りな声」と表現したのではないでしょうか。

ただ 思い出して 終わらないで 抱きしめたいように
容易い笑みじゃ 纏めきれぬほどに
ただ はしゃいだって 譲り合って さよならさ
出遅れた言葉誓って 冷めた皮膚だけ継ぎ足して
生かされてた 浅い声の正義であるように

小さい頃のことを思い出して、何も気にせずに「お父さーん!」ってまた抱きつけるようになるかな…反抗期だとか思春期だとか言っても、このまま終わらないでほしいし、ちょっとニコニコしてるくらいじゃどんなこと思ってるのかわからないよ。無邪気にはしゃいでるようでも、心の中では相手に気を遣ってしまって言いたいことも言えてないね。言おうと思ったけど出遅れた言葉が本心だし、ずっと冷めた表情でいるけど、お父さんがいてくれたおかげで、お母さんが居なくなった後も生きていくことができたんだ。浅い声というのはお母さんの代わりに歌うお父さんの声の様ですね。ACAねさんとお父さんの思いが交錯しているみたいです。

近づいて遠のいて 探り合ってみたんだ
近づいて遠のいて わかり合ってみたんだ
近づいて遠のいて 笑いあってみたんだ
近づいて遠のいて 巡り合っていたんだ

この歌詞、父と娘の距離感を表しているような気がします。詳しい考察は最後に述べることにします。

そっと揺り起こしても 何も変わらぬ存在を大切に
しすぎてしまうから
きっと これから先 もっと綺麗な文字で拾い集めるんだろうな

すやすや寝ている大切な存在の娘を時には過保護にしてしまう。「ありがとう」「嬉しい」「やったー!」等の綺麗な言葉を切り取って、いつまでも忘れないように思い出のアルバムに仕舞っていくんだろうな。
MVの1:45あたりを観てください。インクねこが切手が貼られたアルバムらしきものを眺めていますね。もしかしたらなんですが、このインクねこはACAねさんのお姉さんを表している気がします。(なぜインクねこがお姉さんなのか…その理由はまた別の曲の考察で書きます)

思い出の写真のような切手たち

木っ手男の立ち位置は父親っぽいので、これはお父さんを表している気がします。
木っ手男が集めたであろう思い出の切手たち、家族との思い出の写真を集めたアルバムを表現している感じがするんですよね。
これからもたくさんの良い思い出を作りたいお父さん、優しそうな雰囲気が伝わります。

悪いこと してなくても 秘密を隠し通すことが 正義なら
青い風声鶴唳 押し込んで
いつでも帰っておいでって 口癖になってゆくんだ
口癖になってゆくんだ

年頃の女の子ってお母さんになら相談できることでも、お父さんには言えないことって結構ありますよね?例えば、子どもから大人に変わる身体の変化や悩み、それまで何も思わなかったのに、反抗期に入って親から言われることがなんだかうるさく感じてしまう、とか。別に「悪いことしてなくても」そんなことをストレートに言ってしまったら、お父さんはきっと動転して頭が真っ白になってしまう、だから敢えて秘密にして、隠し通すことがお父さんを思いやる正義だということではないでしょうか。
風声鶴唳とは「風の音や鶴の鳴き声にも、敵が寄せて来たかと恐れるほど、ちょっとした事にもおじけづくこと」という意味の四字熟語ですが、「青い=青春の」という意味も加わると、思春期の娘の何気ない一言でお父さんをびっくりさせてしまう。だから口から飛び出ないように「押し込んで」いたのかもしれません。
「いつでも帰っておいで」とは安心して家に帰ってきてよ、ということだと思うんですが、これはお父さんからACAねさんへ、ACAねさんからお父さんへの両方の意味があると思いました。

なんども話そうと なんども瞑ろうとしても
途端に真っ白くなって 途端に伝えすぎちゃうね
今は単純に散々に願うのさ 傲慢でも精一杯の
「うんうん」って君と僕で 喋ったね 夢の話で
くすぐったい笑みで今は全て

なんども素直に話そうとしたり、なんども気になる言動に目を瞑ってきたけど、その途端に頭が真っ白になって思わず余計なことまで言い過ぎてしまうね。(お父さんは)今は母親役もできるように、(ACAねさんは)素直な娘でいられるように願うよ。夢の話をしたときは、分かってなくても分かったフリして「うんうん」って頷いてたよね。今は作り笑いみたいな慣れない笑顔だけど。

まだ 聞こえないで 終わらないで 抱きしめたいように
小さくなった声に 嘘がないように
ただはシャイいだって 笑いあって さよなら差?
手遅れた言葉 誓って 冷めた皮膚だけ継ぎ足し手
生かされてた 浅い声の正義であるように

「小さくなった声」ですが、照れながらも『ありがとう』とか感謝の気持ちを伝えたんでしょうか、恥ずかしくて声が小さくなったけど、その言葉は嘘じゃないよ、と言いたかったのかな、と思いました。

近づいて遠のいて 探り合ってみたんだ
近づいて遠のいて わかり合ってみたンダ
地下着いて 問い解いて 笑いあってみタンダ
チカヅイテ トーノイテ 巡り合っていたんだ

チカヅイテ トーノイテ サングリアッテミタンダ
チカヅイテ トーノイテ ワカリアッテミタンダ
チカヅイテ トーノイ十 ワライアッテミタンダ
チカヅイテ 十ー退イテ 巡り合ってみたんだ

父と思春期の娘、お互いのことを思い合っているのに、言葉にすると刺々しくなってしまう。そんな微妙な距離感を近づいて遠のいて相手の気持ちを探りあってみたり、わかり合ってみたり、笑いあってみたり、新たな親子関係に巡り合ってみた、ということではないでしょうか。

そして、最後の歌詞なんですが、カタカナになったり色々変化していますよね?これはなんでなのかわかった気がします。
ACAねさんとお父さんの気持ちが親和していってる様子を表しているということと、歌詞が涙で滲んで別の漢字やカタカナに見えていたということを表している、と思いました。

こう考えていくと、他の曲からもACAねさんの苦悩や孤独感、心象や人物像が見えてきます。ACAねさんってどんな人にも寄り添う曲を作っていると思っていましたが、それだけじゃなくてSNSの向こう側で思い悩み苦しんでいる人に共感しながら曲を作ってるはずだと確信しました。

ここからはMVの考察です。0:50に現れるこの女性、ニラちゃんじゃないですよね?この人は亡くなったお母さんじゃないかと思いました。お母さんの姿を探して彷徨い歩いてるような描写が胸に突き刺さります。3:14の涙が溢れるシーンもお母さんに会いたいっていう気持ちが表れてるような気がします。

ゴーグルを掛けた母親らしき女性
涙を零すニラちゃん

それから、2:49からニラちゃんとインクねこが見つめ合うシーンがあるんですが、壁に母親らしき女性とニラちゃんが並んでいる絵が貼られているんですよ。2人の思い出が詰まっている感じがします。

見つめ合うニラちゃんとインクねこ
壁に貼られた絵

3:56からはインクねこが木っ手男の中に入り込んでいくシーンがありますが、これはお姉さん(インクねこ)がお父さん(木っ手男)にACAねさん(ニラちゃん)との関わり方を教えてあげている様子を表しているんじゃないかな、と思いました。少し年の離れたお姉さんなら、父が難しい年頃の妹とどう関われば良いか、多少なりとも分かっていたからだと推測しました。

うなだれる木っ手男と助言しているかのようなインクねこ

これには理由があって、ずとまよの公式サイトに隠しコマンドを入力すると表示されるキャラクターのプロフィールがあるんですが、木っ手男とインクねこはお互いのことが好きなんですよね。これは仲が良かったことや、良き相談相手でもあったことを表しているのではないでしょうか。

好物にお互いの名前が書かれてある木っ手男とインクねこ

木っ手男のプロフィールに「今はこの世にいない。」とありますが、ACAねさんが得意とする言葉遊びとトラップがあると思うんですよね。ここに文字が隠されている可能性もあります。「(配偶者は)今はこの世にいない。」とも考えられませんか?「相槌の打ちすぎで首が太くなった」というのも歌詞に「『うんうん』って君と僕で 喋ったね 夢の話で」とあるように、よく話を聞いて相槌を打っていたんだろうなぁ、と思いました。

最後に木っ手男とニラちゃんが卵かけご飯を食べるシーンがありますが、これも当時の生活の様子を表していると思いました。男親は料理好きじゃないとあまり台所には立たないと思います。だから、誰でも作れる卵かけご飯を作っていたのかもしれません。卵かけご飯は簡単な料理の代表であって、料理初心者のお父さんでも作れる簡単なご飯を食べていたことを表している感じがしました。

卵かけご飯を食べる2人

歌詞にはないんですが、3:32あたりから「僕は君の心の中だ」って囁いているんですよ。この「僕」って誰なんでしょう。私は「僕」という一人称を使うことによって、このストーリーの主人公はお父さんなのか、ACAねさんなのかを曖昧にしていると思いました。
何故かと言うと、その前の3:28から何か言ってるようなところがあります。あれ「生きて、強く」って聴こえるんですよね。(私の主観的な意見です)
つまり、このときの僕=お母さんだと思うんですよ。「もういなくなっちゃったけど、お母さんはあなたの心の中にいるよ」っていう風に感じます。
他のシーンでも「僕」が誰なのかは状況に応じて変わっていると思います。
そして、一番最後のシーンは今まで無表情だったニラちゃんがニコッと笑いますよね。その時に影みたいなのがニラちゃんと重なって一緒になるのですが、0:50に出てきた女性と同じ色をしているのがわかりますか?

お母さんの姿は見えないけど、あなたの心の中に生き続けてるから安心して、っていうメッセージがニラちゃんに届いた瞬間なんじゃないでしょうか。これはもしかしたらACAねさんの望みだったのかもしれません。

お母さんがいなくなってしまったと思わせる歌詞は他にもあって、マイノリティ脈絡の中にお父さんとお姉ちゃんは出てくるのに、お母さんは出てきませんし、朗らかな皮膚とて不服の初回限定盤のブックレットにマイノリティ脈絡の4コマ漫画(ACAねさん作)があるんですが、お父さん、お姉ちゃん、おばあちゃんしかいないんですよ。持っている人は是非確認してみてください。

他の曲の歌詞を見ても、母親らしき人のことは書かれてないんですよね。
ところが、機械油の中国語の歌詞「謝謝イ尓生下我」を翻訳すると「私を産んでくれてありがとう」になるんですよね。あれも今は亡きお母さんに対する感謝のメッセージなのかもしれません、切なくて泣けます…。

ACAねさんのツラい経験を曲としてアウトプットする感性、他に類を見ません。更に音楽性も抜群ですし、本当に唯一無二の存在だと思います。

【追記】
正義に関する考察で核心に迫るものがもう一つあります。ACAねさんが仕掛けたトラップやギミックの傾向など理解できたら納得のいくものだと思いますが、こちらは見たい人限定にしておきます。それではどうぞ。

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