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希望よ、来たれ!日本オペラ界再始動・東京二期会《フィデリオ》を鑑賞して

 どれだけ、この日を待っていたことか!
 東京二期会が9月3日から4日間、オペラ《フィデリオ》を上演した。2月末に政府から自粛要請が出て以来、公演中止が続いた日本のオペラ界。私は初日と最終日に新国立劇場に足を運び、ダブルキャストの両方を鑑賞したが、ナマのオペラは実に半年ぶりだ。その感慨もあって、舞台、ピット、客席が一体となった感動的なラストシーンには涙が止まらなかった(ハッピーエンドの演目なのに!)。
〈上の写真は小原啓楼フロレスタンと木下美穂子レオノーレ=東京二期会提供・転載禁止〉

 クラシック音楽界も、オーケストラなどは6月下旬頃から、時間を短縮し、小編成の曲目で、そろりそろりと演奏会を再開していた。けれど、大きい声での会話も慎むように言われている今の状況だ。歌手が大きな声で歌い、演じる、本格的なオペラは、いつになったら上演できるのだろう…と絶望的な気持ちでいた。
 なので、二期会が《フィデリオ》を予定通り上演すると聞いても、その日が来るまで「ほんとう?!?!」と半信半疑が続いた。
 オペラは、歌手とオーケストラ以外にも、多くの人が関わって作られる。過敏とも思える日本のコロナへの警戒状況では、関係者の1人でも感染の疑いがあれば、公演そのものが中止に追い込まれ、復活はさらに遠のきかねない。
 実際、5日に始まった国立劇場の文楽公演は、スタッフの1人が微熱を発しただけで、中止になっている(その後、PCR検査で新型コロナ陰性となって再開を決定)。
 そんな中でオペラ公演を実現させるには、対策に相当の神経を遣っただろうし、かなりのプレッシャーや緊張もあったはずだ。それをやりきった関係者すべてに、心から感謝したい。

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コロナ対策ゆえの制約

〔上の写真:感覚をあけ、正面を向いて重唱を歌う、右から木下美穂子レオノーレ、山下浩司ロッコ、愛もも胡マルツェリーネ=東京二期会提供・転載禁止〕
 ただ、コロナ対策が最優先となり、舞台作りに多くの制約が課された。本番でも、歌手たちは一定の距離を保ち、歌う時には重唱でも向き合わず、常に正面を向いていた。その立ち位置も、ピットからはだいぶ離れていた。それでも、万が一にも飛沫がピットに届かないように、という配慮だろう、紗幕は終始降ろされたまま。
 当然のことながら、そうした制約は演出を束縛する。しかし深作健太さんの演出は、この「不自由さ」をむしろ効果的に生かし、マイナスをプラスに転換させる見事なものだった。

自由を求めて”壁”を打ち破る

 演出テーマは「自由と壁」。自由を求める人類と、それを阻む壁(収容所や牢獄を含む)との戦いという視点で、世界の戦後75年間をとらえ直し、囚われの夫を解放する妻の戦いというオペラのストーリーに重ねた。
 初めはナチスドイツのユダヤ人強制収容所。ソ連兵による女性陵辱を想起させるシーンや戦後の帰還を経て、東西冷戦によるベルリンの壁が登場する。その崩壊を祝った後にも、テロや戦争が人々の間に新たな壁を作る。イスラエルはパレスチナのヨルダン川西岸地区との間に高く長い分離壁を築いた。
〔下の写真は冒頭の場面。アウシュヴィッツなどナチスによるユダヤ人強制収容所の入り口に掲げられている” Arbeit macht frei(”働けば自由になる)の看板=東京二期会提供・転載禁止〕

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 そして今、ウイルスにおびえる人類は、人と人との間に距離を置く。新たな”壁”の出現ともいえる。けれど、その”壁”は目に見えない。深作演出は、この見えざる壁の存在を私たちに意識させるものだった。

触れあえないもどかしさ

 象徴的だったのが、2幕のフロレスタンとレオノーレの二重唱の場面だ。
 苦難の末にようやく再会したというのに、2人はなかなか触れあわない。喜びと愛を歌う二重唱なのに、近くで見つめ合って歌うこともしない。もう少しで手が届くところに来ても、また遠のき、レオノーレは看板文字の「F」(フロレスタンのF? 自由FreiheitのF? まさかFukasakuのF?)を取って抱きしめたりしている。
〔下の写真は木下美穂子のレオノーレ=東京二期会提供・転載禁止〕

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 見ていてもどかしい。実にジリジリする。
 だからこそ、二重唱を歌い終わった瞬間、2人が抱き合った時の喜びと幸福感たるや!
 そうそう、人と触れあうって、こんなにも幸せで、かつ貴重なことだったのよね……。
 握手もハグもできない生活が「新しい日常」だと言われ、半ば諦めてそれを受け入れている。深作演出は、制約に慣らされた心を刺激し、自由への渇望を覚醒させる。感情の表出や行動を抑え合う不自由を「日常」にはしたくない、とつくづく思う。自由に人と触れあえる日々を、再び日常として取り戻したい。
〔下の写真は、福井敬のフロレスタンと土屋優子のレオノーレ。後ろの壁は、イスラエルの分離壁のイメージ=東京二期会提供・転載禁止〕

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 2人が触れあうのは、後にも先にも、この1回だけだ。後から考えれば、飛沫が飛ぶ可能性のある歌っている間は離れ、歌い終わったら一気にかたく抱き合うことで対面を避ける、という苦肉の策だったのだろうけれど…。この不自由さに込めた深作さんのメッセージはしっかり伝わってきた。

姿を現さない合唱が…

 今回の舞台では、合唱がずっと姿を現さない。1幕の囚人たちの男声合唱も、声だけ。おそらく「密」を避けるため、セットの裏の広々した空間で、「距離」をとって歌っていたのだろう。コロナ対応だからしかたない。そう思いつつ、やっぱり残念。〔下の写真の奥の2人は、囚人1と囚人2、手前は福井敬フロレスタンと土屋優子レオノーレ。囚人達の合唱は姿を見せない=東京二期会提供・転載禁止〕

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 そんな気持ちで迎えた最後の場面、舞台上に幾重にもあった壁が取り払われると、なんと、そこには合唱団が! 新国立劇場ならではの奥行きの深いステージをめいっぱい使い、一人ひとり距離を取って、U字形に並んで現れた。しかも、全員がマスクをつけて!!
 そして、マスクを取り去り、一斉に歌い始めた合唱はフィナーレを盛大に盛り上げる。
 やにわに客席が明るくなった。ピットや舞台の袖にも照明が当てられる。劇場全体が、歓喜とともに、なんともいえない一体感に包まれた。
〔下の写真は初日組のフィナーレ。合唱がUの字型に並び、その前にソリストたちが。看板は文字が入れ替えられ、”Freiheit(自由)に。舞台の袖にも照明が当てられ、右端にセットの後ろの柱が見える=東京二期会提供・転載禁止〕

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 合唱とソリスト陣が喜びの歌を高らかに歌い切ると、オーケストラの演奏の中、それまで下ろされていた紗幕がするすると上がった。
 舞台と客席の間に残った、最後の”壁”が取り払われた。”壁”による閉塞感と、それが取り払われた時の解放感を、舞台と観客が一緒に味わう、巧みな仕掛けだった。


 自由を求める人類によって、”壁”はいつか取り払われる。コロナ禍がもたらした”壁”も例外ではないだろう。そのためにも、現在の不自由さに慣らされまい。そして、この”壁”から私たち自身を解放する希望を失うまい。
 ベートーヴェンが込めた「希望よ、来たれ!」のメッセージの力が、体中に満ちるのを感じながら、そう思った。
 深作さん、ありがとう!

音楽を堪能した!

 指揮者の大植英次さんは、東京フィルハーモニー交響楽団から表情豊かで絶妙のアンサンブルを引き出し、1人ひとりの歌い手に音楽を巧みに添わせていた。とりわけ重唱のバランスと響きが素晴らしく、このオペラの醍醐味を満喫した。
 大植さん、東フィル、ありがとう!

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 さらに私としては、福井敬さんの輝かしく力強い声に再び接することができたのが、格別の喜びだった〔上の写真は2幕の福井敬フロレスタン=東京二期会提供・転載禁止〕。いかにも小市民的なロッコを描き出す演技も含めて、妻屋秀和さんのパフォーマンスも最高だった。黒田博さんの品のあるフェルナンドや木下美穂子さんの気高いレオノーレなど、大好きな歌い手たちの声を味わえたのは、本当に幸せだった。

 歌手の皆さん、ありがとう!

今年《フィデリオ》を上演した意義

 それにしても、コロナ禍からの復活の第一歩が《フィデリオ》になったのは、本当に幸運なことだと思う。物語がいささか現実離れしているので、人の動きがリアルとは違っていても不自然ではなく、演出家の創意工夫も盛り込みやすかった、という点もあるが、それだけではない。
 第2次世界大戦で敗戦国となったオーストリアが、焼け落ちたウィーン国立歌劇場を再建し、英米仏ソの占領から解放されて最初に上演したのも《フィデリオ》。愛と希望を称え、束縛からの解放を祝うこの作品は、復活の第一歩として、実にふさわしい。
 合唱が、二期会だけでなく、藤原歌劇団や新国立劇場の合唱団も加わった混成チームだったのも、日本のオペラ界の新たなる一歩を印象づけた。
 それに、今年はベートーヴェンの生誕250年。コロナさえなければ、今年は世界中のオペラハウスで、この作品が上演されていたはずだ。楽聖の音楽で、人類はこれまで、どれだけ慰められ、豊かな時間を得てきただろう。そのことを考えると、今の困難な時期でも、否、そういう時期からこそ、希望に満ちたこの作品の上演は、実に意義深いと思う。

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 上演に当たっては、観客にも協力が求められた。
 入る前に、住所氏名連絡先と座席番号を用紙に記入し提出。万が一、後から感染者がいたと分かった時に、近くの座席の人を把握するためだ。さらに体温も測定し、チケットの半券は、観客が自分でもぎり、置かれた箱に入れる。

コロナ検温

新国コロナ対応


 客席は1つ置き。「ブラヴォー!」などのかけ声は禁止だ。
 ただ、かけ声を禁じておけば、上演中は一切声を出さず、前を向いて座っているのだから、何も客席を1つおきにすることはないのではないか、と個人的には思う。国のガイドラインは、イベントごとの特性を考えて、改善していく必要があるのではないか。

 ともあれ、しばらく制約があるのはやむを得まい。大事なのは、1つでも多く、企画していた公演を実現することだと思う。
 外国人の来日は困難な状況が続いているが、海外の歌手や指揮者を予定していたプロダクションは、可能な限り、日本人歌手や指揮者に変更して上演することを考えてもらいたい。今回も、指揮者はダン・エッティンガーからの変更だった。
 知恵を寄せ合い、工夫を重ね、オペラの灯をますます明るく灯して欲しい。

 これまで私は、当たり前のようにオペラ公演を楽しんでいた(高額チケットは無理だけど)。でも、実はそれが可能なのは、社会が平和であるからこそ。新型コロナウイルスによって、世の中はかき乱され、人々は恐れ、そしていろいろなものが失われた。
 失って初めて、それがどれだけ貴重なものか思い知らされ、前よりもっと大事に感じられるようになったものがいくつもある。「不要不急」とされがちな町歩きや飲み会など人とのふれあい、そして、私にとって、生のオペラを見る機会もその1つだ。
 そうしたものを、もっと大事に、得られた機会の1回1回を、大事に味わいたいと、心の底から思う。

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