大麦小麦二升五合
魔法の言葉? 「大麦小麦二升五合」
むかしむかし、ある山奥の村に信心深いお婆さんがいました。畑仕事の合間に、村のお寺で偉いお坊さんの話を聞くのがたった一つの楽しみでした。ある時お坊さんにものを尋ねました。
「お坊さま、毎日身体の具合が悪くてなんね。難しいお経はわからねぇだが、おらでも唱えられるありがたいお経の言葉を教えておくんなせ」。お坊さんはにっこり笑ってありがたい言葉を教えてあげました。
「おお、これならおらでも解るべな」お経を聞いたお婆さん、大喜びで帰って行きました。
さてその日から朝な夕なに、教わったお経の言葉を真剣に唱えるお婆さん。そうして何日かが経っていくうちに、あら不思議。みるみるお婆さんは元気になっていったのです。嬉しくなって、お礼を言いにお寺へ出かけて行きました。
「お坊さま、あの〝おおむぎこむぎにしょうごんごう〟は、よく効くお経じゃ。おら、こげに元気になったげな」。それを聞いたお坊さん、
「お、お、お婆さん、それは違うぞ。〝おおむぎこむぎにしょうごんごう〟じゃないぞえ。応無所住而生其心じゃ」
大慌てで正しい文句を教えるお坊さん。
「おやまぁ、そうかい。学が無いとは悲しいもんじゃ。」お婆さんは正しい言葉を教わって家に戻って行きました。
それからまた数日後。血相変えたお婆さんがお寺に駆け込んで来たのです。
「お坊さまよ、教えてもらった正しいお経を毎日唱えておるが、ちっとも効かねえ。また具合が悪くなっちまっただ。やっぱり、こりゃあ〝おおむぎこむぎにしょうごんごう〟の方が正しいんでねべか?」。
イワシの頭も・・・?
ちょっと笑える寓話である。このお婆さんにとっては、学問的に意味のある「応無所住而生其心」より、身近な言葉と聞き間違えた〝おおむぎこむぎにしょうごんごう〟が心に響いた〝正しい〟言葉だったのだろう。
だからこそ、心から信じて一心不乱に唱えた結果、学問的には無意味な言葉が、唱える本人には、〝意味のある〟言葉となっていたのだ。まさに「鰯の頭も信心から」の例えの通りだ。
学問的・学術的には、「正誤」ということは確かに存在する。例に取った寓話にある「応無所住而生其心」には学問的にもちろん正しい意味がある。
一方、〝おおむぎこむぎにしょうごんごう〟には言葉としての意味はあるが、それは単に〝大麦と小麦が二升五合ある〟という事に過ぎない。
しかしそれは、言葉としてはたわい無いものであっても、心が、正しいと決めて選び取ったものである限り、〝その人〟にとっては、言葉の意味以上の力を発揮するのである。これが〝信じる〟ということではないだろうか。
「執着心が無くなれば、心は軽くなる」と説いた言葉だった
この「応無所住而生其心」という言葉は、「金剛般若経」(略して「金剛経」という)の中心を成すとされる言葉である。
「金剛経」では、物に執着(仏教では〝しゅうじゃく〟と読む)する心、他人と比較したり分け隔てをする心を否定する。
執着心や分別心の否定とは、「何ものにもとらわれることが無いままに、心が働く」ということのようだ。
その様子を言うのが「応無所住而生其心」であり、読みとしては、「応に住する(執着する)所無して、而も其の心を生ずる」と言うことになる。
ものに執着することが無くなれば、羨ましいだの、妬ましいだの、もっともっと沢山欲しいだの、人に盗られるんじゃないかとか、失いたくないだとかの気持ちが無くなり、心が無闇に騒がなくなる、と言うことだ。
いわゆる、「悟り」の境地の一つとも言えるところに到達できるのだ。
禅宗の考え方では、この「悟り」というものは文字や言葉によってではなく、修行を積む中で心へ伝えるものであり、悟りは言葉で表せるものではないから、言葉や文字にとらわれてはいけない、とされている。
禅問答が理論性が無いものに思えたり、ただ意味不明な言葉のやり取りの繰り返し、と受け取られるのは、言葉の理論性を否定して、文字に捉われない行いを現すためのもののようだ。
決めるのは、自分自身の「心」
お婆さんの物語から、禅の講釈じみた話になってしまったが、心に潜む執着心や、他人と比較する(これには多分に妬みや僻みを伴う)心は、誰しもが持っているものである。
そこに〝住さず〟に、毎日を送ることは至難の業である。無理なことは無理と割り切って、せめて、物事の正・誤や好悪、と言うことに関しては、他人との比較や、周囲の目に惑わされずに、自分自身がその心に照らして決めて行けるようになりたいものだ。
文責・写真 : 大橋 恵伊子