11年前のあの時刻。

※ この記事には、311の詳細な描写も含まれますので、苦手なかた、まだ心の傷の癒えてないかたはブラウザバック願います。



にコメントありがとうございました。
下記の通り、ご紹介させていただきます。


ナランチャちゃんは

校正プリントを300枚ほど出力してるところ

だったそうです


クルクル☆カッピーさんは


電車乗ってた

そうで


大聖寺ダリアさんはもろ現場


うねったどころか、液状化していました


に始まる詳細なレポートをくださいました

これはリアルな言葉の方がいいと思うので

まんま一本にまとめますね(後出↓)



秋谷りんこさんは当事看護師さんで勤務中


7階の建物の5階にいたので、すごく揺れました。
配膳用のエレベーターが止まって、1階の食堂から患者さんの食事を階段で5階までバケツリレーみたいにして運んだり……

こちらもめっちゃ大変だったようです


あべみょんさんは当時も西日本


営業車で瀬戸内海沿いをガンガン爆走していました。
母からメールが来て
「東京で大きな地震があったらしい」
とあり、クライアントさんとその話題で持ちきりでした。
行く先々でニュースをみんなが見ていて大変なことになってると思いました。
徳島にも津波警報が出てると聞き、慌てて夫(当時はまだ結婚前)に電話したら
「んもう!!今、不動産屋に電話しようと思ったのに!全然電話ができんで!やっとと思ったらお前かい!いそがしいけん!切るよ!」
と怒られましたw


怒られちゃったんですね


若葉都さんは都内勤務先。
11階建てビルの9階だったそうで、これも揺れたでしょうね・・・


大物が倒れるとかは無かったけど、デスクの下に潜っても机ごと滑ってる感じだった。
すぐ帰れる人は帰っていいと言われて、電車は全部止まってたので45分歩いて帰宅、急いで保育園に息子(当時5歳)を迎えに行ったら近所の中学校の体育館に全員避難してた。
息子が無事でホッとして愛おしくて泣けた(T_T)
勤務先が遠方や職種によっては帰宅できない方もいらして、一晩避難先で泊まった園児も多かったとききました。
子供の無事を守ってくれた先生方、心の底からありがたいと思いました。


ダリアさんの詳細レポです。


サイドボード真ん中から折れて、電気が通ったのは8日後の、18日14時40分頃です。
喜怒哀楽を面に出さない肉屋のおじちゃんが踊りました。
そして、家に入ってテレビつけたら、ミヤネ屋で一週間目の黙祷していました。
11年経つからわかる。
初七日なら、17日木曜日14時46分が正しい。
金曜日ごとになにされてたんだ!


母は入院先の病院で被災。
私は友人がおごってくれるというので朝飯も抜き、ファミレスでオーダーした瞬間に揺れ。
信号も止まり、向かいのガラス張りの床屋のガラスが全部割れ。
オーダーだけだから、すぐに友人の車で病院に向かう(歩いても10分)、見た光景は全部白黒。
看板が落下したり、ガラス戸が割れた店~後継者いないからこれで閉店だなとか。
揺れて数分なのに、定休日の宝石店の宝石側のガラスが不自然に割られ盗賊が入った感じ。
曲がろうとした近道は真ん中にカルピスの自販機がふっとんで寝ていて通れない。
病院の駐車場は液状化し、院長が空を仰いで
「我々は見放された。
自衛隊はさらに北に向かった」
と語り。
母の部屋は、行く前に買ってきたココアが飛び散り、甘い香りがしてやっと色がついた。
あまりの怖さに四人部屋全員記憶なし。

すぐに家に向かう。
途中コンビニは、人ヒトヒト。
飲料は、隣にある別の総合病院が買い占め、男たちは酒とたばこを買っていた。
私は、金曜日発売の週刊誌を立ち読みし(笑)あとは、あるものがある場所にないのでなにを買ったらよいかわからず、おにぎりやパンは売り切れで、デリカの豚汁と床に落ちてたカップ麺と…盲点の中華まん。
買って家に。
下駄箱が倒れてて素直には入れず。
サイドボードが折れてるので台所とか見ることもできず。
懐中電灯だけ持って病院に。


津波が起こったことも、それが東日本に大震災が起こったことも知るのは、命がけで配ってくれた翌朝の新聞の見出しでだった。


台所行けないんだから、食うもんないだよ。
しかし、避難所には行かなかったし、救援物資1個ももらってない。

あの世界中から集まった義援金も、1円もいただいてないんですが、あのお金は誰がもらったんでしょうね?
昭和53年の宮城県沖でさえ、ボンカレー1個と歯ブラシ1本いただいたのにさ。
あの時から、中抜きされてたんだね。
義援金出すなら公にではなく、知ってる人に直接でお願いします!


なんか言葉もない。
今熊本被災の知人と話してたんですけど、義捐金ちゃんともらったって。
総額はわかるけど頭割りがわからない。
程度差もあって、数百万(全壊)の方から数千円の方、いろいろだったらしい。
私はこのとき初めて、タンスが歩くこと教わった。
東日本では津波てんでんこの話だけでキャパオーバーだった。
私の脳内地図は福島がどこかも書き込まれていなくて、宮城とどっちが東京寄りかもわかってなくて、いまも実はそんなもんで・・・
ごめんなさい。

みょんちゃんのレポはまさに阪神淡路の時の私たちで。
細長い日本は、離れていると実感が少なくて・・・
これもごめんなさいなのです。

阪神淡路。
恋人を案じた。
東日本。
私には戦国BASARAと原発。
熊本は友を。
今ごろちょっとずつ、物事を知っていってるとこで。
私はめいっぱい幼いです。


311。

アメリカで言えば

ケネディ暗殺の日

的なものとなってしまった。
どこで何してたか、言える人も多いと思う。
こういう記憶のされ方でいいのか?とも思うけど、

私は覚えていたいです。


コメント参加の皆様も、ほんとにありがとうございました。


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