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人を撮りたくない

人を撮る。

過去の写真を見返すと人を撮った事はほとんどなかった。
いつからそんなルールを決めていたのかは分からない

そんなルールを決めていたかどうかも分からない

それはなぜなのか。



ポートレート撮影をメインにしている友人から

人を撮る楽しさ

について説かれた事がある。
聞いても全く理解する事が出来ない内容だった

人の表情や、その変化から読み取る事が楽しい。

そんな風に説明されても別に人の表情がどう変化しようと構わないし、それを撮ったとしても
それはその場で作った表情や姿だ。

だから、それを意図しておこなっているのだから
変化の楽しみも何も感じない。

それに、いわゆるポートレートモデルをしている人が苦手だ

カメラを持っていれば
「撮ってほしい」と言われる。

そしてカメラを構えたらモニター越しに
シャッターボタンが押されるのを待っている姿を見て何が楽しいのだろうか?

全くそれが分からなかった。
iPhoneで友人などと一緒に写真を撮る事は嫌いじゃないのに不思議だ。

なぜだか自分の持っているカメラで撮ることはなかった。

スナップフォトや、風景写真ばかり撮っていることが多い。

ポーズを決めた人物を撮るよりも
自分が見た世界が表現されるんだから楽しいに決まっている。



自分が見た世界を写真に残す。
それを後から見返せばその時の情景を思い出せる。

そんな写真を撮りたいというのが
ある意味自分の芯なのかもしれない。

その自分の信念の実現と
思い出を更に作っていくためには
「人を撮る」ということにも足を踏み入れなければいけないのだと思う。

別にモデルを撮る必要なんてない。

友人たちと遊びに行った際には、その楽しかった思い出を残す。

それを思い出に残すのであれば
友人たちの何気ない光景も撮ってみよう。

友人の子どもと遊んだ時は
「撮るよー」と声をかけてポーズを決めさせたものではない自然な姿を残してみよう。

そんな事から始めてみた。

カメラを構えてる事を知らせずに撮影することは
今までの自分のスキルでは難しかった。

水平も守れていない、被写体ブレしている。

でもそんな写真も見返してみたら不思議と楽しく思えてきた。

それらの写真を現像したらデータを送ってみる。

その写真を見て笑ってもらえたり喜んでもらえたら
すごく嬉しいとオレは感じるだろう。

人を撮る

そんな難しく考えることではなかった。
人を撮っているのではなく目に映る光景と時間を撮っているだけだった。

子どもに「撮って!」と言われて撮影した
後から写真を見た時に「この時は楽しかったな」と
お互いに思えればそれが良いなと思う


こんなバカでかい重いカメラで、気づかれないように撮ろうとするのは難しい。
「自分、写真撮るっす!うっす!」と表現しているようなものだ。

小さいカメラがほしいと最近は思う。




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