海に消えたおっちゃん


27年前、兄の葬式で父の友人であるおっちゃんに声をかけられた。

大体の大人たちは、親戚のおじさん、おばさんぶった接し方をするのが常である。(「ちょっと見ないうちに大きくなったなあ」とか「勉強頑張れよ」と言った具合に)
おっちゃんは気さくな人で、思春期真っ盛りの野良猫みたいな目つきのわたしに、優しい眼差しを向けてくれた。

それは人に対して判断をしない、フラットな眼差しだった。

田舎で暮らす人たちは、常に目に見えないしがらみの中で生き、それが常識であると疑わない。そんな空気感が窮屈だったわたしは、おっちゃんの「フラットな眼差し」が一瞬の救いのように感じた。

おっちゃんはただにこにこと笑い、

「大丈夫やで」

すべてを肯定してくれるような言葉だった。このおっちゃんは信頼できる、子供ながらそう思った。


その数年後、父からおっちゃんの消息を聞くことになった。「車ごと、海に突っ込んで死んだ」

おっちゃんが死んだ。身内以外の死で、こんなに動揺したことはなかった。

自分で商売を始めたものの、うまくいかず、いわゆるそっち系の人たちに金を借りていたため、執拗な脅しに追い詰められていき、冬の日本海、崖から車ごと海に突っ込んで自死したのだ。

なぜ、おっちゃんが死ななければいけなかったのか。おっちゃんは助けを求められなかったのか。誰もおっちゃんを救えなかったのか。

多くの問いが頭の中を駆け抜けた。

あの葬式の時の、健やかな笑顔のおっちゃんが浮かんでは消える。

「大丈夫やで」

全然大丈夫なんかじゃない。死んでしまったら終わりじゃないか。おっちゃんはわたしの記憶の中で温かい眼差しだけを残して、この世を去った。兄と一緒だった。強烈に悔しかった。父の大切な友人のひとりだった。

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