ため息の理由~直島一人旅③終~
私はいわゆる「言葉の早い子」だった。
歩き始める前からよくしゃべったそうだ。祖母に背負われ、半纏にくるまれて行った商店で、私がおんぶ紐の中でしきりに話すので
店のおばさんから「どこから話し声がするのかと思ったら!まぁ!」と驚かれたという話は祖母によく聞かされたし
幼稚園に入園する前、親戚のおばさんに「幼稚園はお弁当かな?給食かな?」と尋ねられて
「完全給食です」と答えて驚かれた話は、うっすらと記憶にある。
けれどもその言葉、とりわけ感情や感覚を表す言葉の意味を「あぁ、こういうことか」と実感を伴って理解するのは人よりも遅かったように思う。
例えば、「お腹が空いた」という感覚は小学3年生になるまで分からなかった。「食事」は、時間が来たらやらなくてはいけない作業のひとつだった。もっと食べなさいと家で叱られ、食べ終わるまで昼休みはありませんと学校で叱られ、好きでも嫌いでもない目の前の食べ物を箸でつつくだけの毎日を送っていた。
あの頃のまま大人になっていたら、私はもっとスリムだったのかしら。
直島で過ごす昼下がり、私に幸運が訪れた。
地中美術館で行われるナイトプログラムに空きが出たというメールが来たのだ。
ナイトプログラムは完全予約制。存在を知ったときにはもう予約はいっぱいになっていたのだが、一人なら行けるかも、とキャンセル待ちの登録をしておいたのだ。
海のない街で育った故に、瀬戸内の綺麗な海にテンションが上がって着の身着のままで海水浴をし、海から上がって後悔に立たされていた私はすぐさま宿に戻ってシャワーを浴び、電動自転車で坂の上にある地中美術館を目指した。
地中美術館のナイトプログラムは、ジェームズ・タレルの作品「オープン・スカイ」によって行われる。
「オープン・スカイ」は、白くて四角い部屋のようになっている。部屋の四辺はベンチになっており、人々はそれぞれそこに座って観賞する。
何を観賞するのか。それは直島の空だ。
部屋の天井は四角く切り抜かれており、さながら白いフォトフレームのようになっている。
夕暮れから日没にかけて、静かに空を眺め、刻一刻と変わり行く直島の空、そしてジェームズ・タレルが生み出す空間を観賞するのだ。
毎日違う、今日のこの時には、今日のこの時にしか見られない芸術。
おしゃべりは厳禁。しんと静まり返った室内でも、人々の期待感をひしひしと感じることができた。
みんなで、空を見上げる。
空を見上げると、今日一日のことが思い出される。
憧れの直島に来られた喜び。ドミトリーの中国人に「日本人なの!?」ってびっくりされたこと。どこの人だと思ったのか聞けばよかった。電動自転車がすっごく便利なこと、瀬戸内の海の穏やかさ。アートを巡る面白さ。この旅で初めて知ったジェームズ・タレル作品の素晴らしさ。
さて、明日は何をしよう。帰りの飛行機は何時だったかな。そういえば恋人とは喧嘩中なんだった。仲直りするの面倒くさいな。明後日仕事に行ったらこの間の研修のレポートを出して…
ただ空を見上げて、ボーっとしている。
ボーっとしているのに、頭の中はいろいろな思考が駆け巡っている。
でも、気ぜわしくない。いろいろな物事が頭の中にポッと生まれては、そのまま見上げた空に吸い込まれていくようで、それが空に溶けていくようで、お風呂上りみたいな、ふんわりとした幸福感が身をまとっている。
あぁ、幸せだ。
ずーっと見上げていた空は、ずーっと見ていたはずなのに、気付かぬうちに星がひとつ、またひとつと瞬き出していた。
その美しさに、思わずためいきが漏れる。
あ、
これだ。
小学校3年生の時の国語の授業で、担任の長嶋先生は私たちに
「苦しい、とか辛い、という気持ちの時以外に、人がため息をつくのはどんな時ですか。」と尋ねた。
こういうことかな?と私はすっと手を挙げ
「お腹が空いた時」と答えた。
長嶋先生はそれこそふっとため息をつき、
「うーん、そうじゃなくて……」と苦笑した。
よく考えたら、空腹は辛い。
すると次に手を挙げたのはクラスで一番勉強ができ、バレエにバイオリン、英会話もこなす才女、市原さん。
「はい。綺麗な音楽を聴いた時です。」
音楽が専門でもある長嶋先生の顔はほころび、
「素晴らしい。市原さんは素敵な経験をしているのね」
と褒めた。
そして、人は負の感情の時だけでなく、感動した時などにもため息が出ることを説明した。
へぇー、人はカンドウするとため息が出るのか。
「感動」をまだ覚えたことのない私は、一生他人事であるかのように感じていた。
けれども。
これだ。
これが「感動したときに出るため息」だ。
長嶋先生、お元気ですか。
14年前の授業の答えが、今やっと分かりました。
「苦しい、とか辛い、という気持ちの時以外に人がため息をつくのは、美しい空を見上げた時です。」
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