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詩の完成度について私が考えること。

SNSで

当たり障りないことでなく自分の意見を発するというのは

不特定の誰かの心を波立たせたり「いけすかない」と思わせてしまう機会を増やすということだ。

わかりきったことだから賢明な人たちはもう本音をSNSではつぶやかない。
戦略的にひとつのツールとして活用するだけだ。

馬鹿なので
(自分の馬鹿なとこは好きだ!←おいおい!)

戦略は横においておいてあまり考えずにnoteに作品を置く。戦略でどうにかなるほど詩の道は甘くないのだから。

いやぁーーーー
前回の恋愛絡み作品は恐ろしいほど反響が悪かった。

クリスマスシーズンに合わせたつもりだったのに(涙)

みなさーーーーーん!
他人のハッピー話は
いけすかんですかぁぁぁー?

(しかも作品だからフィクションの可能性大やん!)

自慢って思っちゃいますかあーーー?

プチエロあかんですかぁぁあー?

(愚痴が長いので閑話休題)


本題に入ろう。

たとえば

コンビニに行って精算してもらう際に何度も検証したことがある(※レジ袋有料化前です)

レジに商品を出す際「袋要りません」と言っておく。

前もって言ってるにも関わらず9割強の店員さんはレジ袋に商品を入れようとする。

「袋要りません」と伝えるのは店員さんがまさに袋を使おうとしている段階で伝えなければいけない。

店員側でなくなぜか
購入者が配慮しなければいけない。
(接客太郎なのでなんでやねん!と思ってしまう。この日記は!を意識的に多様)

たぶん理由はふたつ

「手が覚えていて咄嗟に動いてしまう。習慣的な手の動き」

もうひとつは
「自分以外のものに意識を向けられていないから」。

後者は新人だったらわかるけどそうでない場合が多い。

この「咄嗟に手が動く」「自分以外のものに意識を向けられてない」は

詩作品にも共通することだと思っている。

恋愛でもそうだけどモテない人は
(まずは身綺麗にすることスタートですが←こういうことを書いたら嫌われるので良い子はマネしちゃだめよ。ただ元プロ結婚相談所カウンセラー管理職なので書かせてね)

「やたらマイペース。もしくは相手に合わせすぎる(卑屈になりすぎ)」

傾向が強い。ダンスのように相手に呼吸を合わせてその都度変えることを優先させることが苦手だ。

作品も同じで

「自分にうっとり」しすぎて

「他者をじっくり見られていない」

それは

「作品の完成度を求めすぎる」ことと遠くない。

詩は自己完結で終わってはいけない。

が私のポリシーだ。
出来てないけど忘れない。

他者に届けられる前に「完成」されすぎている作品は私には気持ちの入りどころがなく息苦しい。

好きなジャンルのものなら読めるが
でないと
「書き手のうっとり」
具合がものすごく鼻に付いてしまう。

優れた、多くの読者に響く作品を書くことを望むならこの視野の狭さは書き手の命とりだと思う。

相手を眺めるのでなく
注視するからこそ気づけるのだ
願いも、わずかな欠けも。

恋愛でも相手の「欠け」が愛おしくなってからが本物だったりするように

合理化して削いだところに一番削いではいけないものが隠されていたりする。

それがたとえ自分には見苦しいものに見えても。

人は作品の何に魅せられるのか?


その人独自の実感に裏打ちされた隠せない、滲み出る「人となり」だ。

それが容易く他者の表現とダブル訳がない。

読者をあなどってはいけない。
言語化まで出来ていないそれを

むしろ、「それ」を感じるのが

感じられるように書かれたものが
詩なのだ。

(書いていて自分の耳が痛すぎるが)

欠損 からしか
魅力は生まれない。

     

               (了)

アンビリーバーボーな薄給で働いているのでw他県の詩の勉強会に行く旅費の積立にさせていただきます。