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近況的な。

日曜日の午後、秋風を浴びながらパンとコーヒーを頬張る。夕食はポトフにすることに決め下拵えを済ませた。決め手は瑞々しいかぶだ。葉までパキッとしていてすぐに手を取ってしまった。しらすも買ってきたので葉の部分はふりかけにしよう。このふりかけは祖母の味で、祖母は大根の葉であったけれど、食卓に並ぶと父と米をがっついた記憶がいまだに鮮明に残る。味はそれなりに再現できていると思えるが、レシピを聞いておけば良かったと思う料理の1つだ。

日曜日の午後、PCを開きエディタに向かう。この文章を記すエディタもそうであるが、スクリプトを書くためのエディタにも目を向けている。元は後者が目的であって気晴らしに文章を書いているに過ぎない。一時はいわゆるプログラミングというものから離れていたわけだけど、ChatGPT的なやつに骨組み書いて貰えばええやんとなったのが昨日。正確には数ヶ月前だがなぜだかエラーが出てChatGPTのアカウントが作れなくて諦めていたのだけれど昨日改めてやってみたら普通にできたので。というわけで早速日頃考えている業務効率化的なアイデアを可視化し始めた。簡単なものであれば案外サクッとできてしまうのに驚いて、ああ、単に英単語知らなくて何も書けないのと同じだわとなった。友達のように接してくれるChatGPTくんも親しみやすくて嬉しいところだ。

日曜日の午後、玉ねぎを刻んだ目がシュパシュパする。ポトフだからそんなに対峙していたわけではないのだけどダメージは大きい。まあそれも料理の醍醐味だと穏やかな気持ちでいられるのも料理が好きだからであろうし、少しだけ日々の生活に余裕を見出せているからかもしれない。一時期はとんでもなく忙しく、そしてとんでもなくストレスフルな日常であったけれどいつのまにか肩の力が抜けてきた気がする。忙しさは変わらないし業務中のストレスも凄まじいものであるのだけれど、多少余裕を持ててきたのは自分の力がついて業務のスピードが出てきたこともあろうし、狭まっていた視野がまた少しだけ広がってきたからかもしれない。何より、酒を飲まなくなって身体が回復してきたからもしれないが。

日曜日の午後、夕食に合わせるノンアルコールビールのことを考える。最近はただのノンアルコールビールじゃないやつらも存在していることを知った。今日はライム風味の輩を手に入れてきている。隣に桜尾が出しているノンアルコールのジントニックがあって一瞬手に取ったのだけど、それただのジュースだなとなって棚に戻した。桜尾は好きなジンの1つで今も手元に置いている。ただもうしばらく飲むことはないのだろうなと寂しさを感じたりもするところだ。事情があって家で酒を飲むのをやめた。これをいつまで続けるのか、いつまで続くのかは自分でもよくわからないけれど。

日曜日の午後、会社の人のことを考える。先日あなたが言ってることは参考になりません、もういいです、的なことを言われた。なぜこうも分かり合えないものなのかとも思ったが、こちらが通ってきた道と相手が通ってきた道は異なるし、どちらがスタンダードかと言われれば向こうなんだろうなとか少し反省した。もう少し言葉を選べよとも思ったが、プライベートで関わるわけでもないし年下だしいい。それにしても管理職のおっさんにも同じようなことを言われてそっちはそっちでどうしようもねえなと思ったところだ。私が見ている世界が周囲と少し異なるのは事実であるしもう少し寄り添ってあげたほうがいいのかもしれない。この1年、全力で走って先に行き過ぎた。もう誰もついてきていないくらいには。目の前に広がる世界を追い求めてひたすらに走ってきたけれど、ここいらで来た道を少し整備してあげないといけないのかもしれない。わたしはまだ前も後ろも舗装もされていない道を数少ない盟友たちと共に走り続けているのだから。

日曜日の午後、かぶの下茹でがおわったら散歩にでも行こう。気持ちの良い風が私を誘っている。とてもいい日曜日だ。

にゃーん。