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日々の記録34

生きていると攻撃的な人間に出会うことは多々ある。街中で嘲りの目を向けてくる人間だったり、電車で堂々と肩をぶつけてくる人間だったり。斯く言う私も他人に対してそうやって攻撃的になる瞬間というのがあるのだろうけど、本来それを行使する権利はないはずだ。少なからず現代の社会では。

見知らぬ他人に干渉することは極力避けているつもりだ。干渉という意味では困っている人を見過ごせなくて助けてあげたりということはあるが、少なからず攻撃的になることはない。

知り合いに対する干渉だとどうだろうか。家族、友人、恋人、同僚。私自身、あまり干渉されるのは好きではないし、積極的に干渉することは避けているつもりだが、好きな人間、気にかけている人間にはどうしても干渉してしまう節がある。相手の性格なり関係性なりにも干渉度合いは左右されるのだろうが、これは人間の性なのだろうか。この干渉したくなる性は時に暴れることもあって、歪み始めると攻撃的になるし、時には対価を求めるようになってしまう。ここに人間の欲求が見えてくる。

イライラしてしまうのも他者へ対価を求めているからかもしれない。期待していることをやってもらえないことにイライラするのだろうし、自分の邪魔をされるというのも邪魔をしないという期待値に対する乖離だ。他者への期待値を持っている以上、それは逃れられないことなのだろうし、何より、その期待というのは自分自身を理解してほしいという承認欲求なのである。それを押し付けているのであろう。

結局すべて承認欲求のようなものに起因するのだろうか。その欲求は見ず知らずの他人よりも、自分の好きな人間からの報酬を求めるだろうし。ただその報酬を自身の一方的な干渉の対価として求めるのはおかしいことなのだけれど。お互いにベクトルが向き合っていれば最善で、そういう関係性を作り上げていく努力を怠らないようにしなければならないのかもしれない。

さて、これを見ず知らずの他人にまでやってしまう人間の気持ちは最早わからない。ただそれを理解して受け入れる作業はある種の自己防衛にも繋がる。他者の理解というのは永遠のテーマなのかもしれないし、この努力が相手との距離感を保ち我々が健やかに穏やかに生きていける唯一の術なのかもしれない。

それにしてもずっと目を背けてきたような気がする。
また明日。


にゃーん。