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日々の記録35

最近はこれまで仲良くなかった人と話す機会も増えた。休日何してるの?という最も私が苦手とする問いも受けるが、いつも通りに回答できない私がいることにも気づいた。実際のところ、最近の休日は何もしていないのである。だらだらとYouTubeを見て、食事をとり、ジムに行く。買い物に行き、料理をする。ノンアルビールを飲みながらライブ映像をYouTubeで見る。日曜なら大河を見てまた平日を迎える。穏やかでいつも通りの休日なのかもしれないが、梅雨時というのも相まってどこかに行くこともないし、少し前まで当たり前だったような人に会うということもなくなった。社会人になってから当たり前だった少々孤独な休日に戻っているのだ。だからこそ、あの苦手な問いに自信を持って答えることができないのかもしれない。なんせ、私にとっては当たり前で特筆することのない休日であるから。

他者との関わりというのは私が苦手とするところだ。仕事であれば割り切って積極的に関わることができるし、目的もあるから人間関係の構築は簡単だ。それがプライベートになると途端に難しくなる。公私の狭間で仲良くすることはできるが、プライベートに招かれる、招き入れることのハードルは私にとっては高すぎるのだ。お陰で極端に不器用で、少々孤独で、なかなかに未熟な人間ができあがっている。

30代になって周りはこんなこと当たり前にできる人間ばかりになった。自分の未熟さを感じるばかりであるし、もっともっと大人に、成熟した人間にならなければならないという事実を突きつけられるばかりだ。その分、他のところは誇れるほどに、自信を持って頑張っていると言えるほどに突き抜けてきたのだろうし、様々なことを乗り越えられるような強さや優しさを身に着けられているのだろうとは思う。その引き換えに自分自身を殺し、うまく生きていくことを犠牲にし、未熟さが故に苦しむ生活なのかもしれない。

ここまで悔しいと思うのはいつぶりだろうか。そしてこうやって悔しいと思うのは人間として未熟だからこそだとそんなことを思う。だから余計に悔しかったりもするのだ。執着するタイプであることは間違いないが、それはどちらかと言うと一線を越えるまでが長いからかもしれない。そこを越えるまではひどくドライな人間であるのに、そこを乗り越えてからは執着がひどい。だからこそ傷つき方も酷いのかもしれないし、乗り越え方も不器用なのだろう。ひとまず今日はこれまでよりも数段胸が痛い。なんでこんな痛みと闘いながら生きなければならないのか。穏やかな生活が一番というのになぜそれを許されないのか。

生きる世界が違ったことは理解している。そして自分自身のこの世界を裏切ることができなかったこともわかっている。そういう意味では自分自身を一番大切にしているのかもしれないし、歩み寄らなかったことの一番の原因だろう。今の時間はその代償なのだろうとも思うし、思っていたほど良い関係性ではなかったことは事実だ。

いつこの呪縛から逃れられるかはわからない。ずっと目を背けてきたことだ。ちゃんと向き合い、咀嚼し飲み込んで全てを受け入れることは今の自分自身に課されたミッションである。これから先数十年この世界で生きていくために必要な経験で、これから訪れる良いことも悪いことも受け入れられるようになるために必要な強さなのだ。正直人より感じやすい人間だし、精神的な防衛本能が強い人間だし、自分にとって優しい環境がなければ生きられない人間だ。それを手に入れなければならないのも事実だけど、もう少し社会の刺々しさ、時折露呈する人間の醜さを受け入れ吸収できる強さを身に着けるのも今の私に必要なことなのだ。

強くなりたい。こんなことを思うのは久方ぶりだが、強くなるためには生半可な努力ではいけない。傷つき、苦しみ、限界を超えていかなければ強くなれない。筋肉と同じなのかな。そしてそれを乗り越えていくためにはきっと1人ではできないし、もっともっと自分を押し上げてくれる人たちが必要なのかなとも思う。今日は長くなってしまった。それにしても心が苦しい日である。

もっと自分の為に生きる。
また明日。

にゃーん。