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【随筆】詩との付き合い方

 私はいままでまったく詩に触れてこなかった。萩原朔太郎や宮沢賢治など、詩集を買ってみて挑戦したこともあるが、どのように読めばいいのかわからずくたびれてしまった。
 詩の訳も手掛けるとある精神科医は、詩集にくたびれてしまうという人に「あなたね、たとえば美術館に行ったら絵や彫刻を一つひとつじっと見るの?」と言ったらしい。確かに一理あるが、詩集を読むことは、美術館で絵を観ることよりむしろ画集を読むことに近い気がする。私は美術館は好きでよく行くが、画集を読み通すのはくたびれる。
 だが、このまま詩にまったく触れない人生は悔しい。そこで、一日一編ずつ読むことにした。さらに、理解するのが特に難しい詩を読むことにした。理解するのが難しい詩とはここで何を指すかというと、シュルレアリストの詩、特に瀧口修造の詩である。
 もともとシュルレアリスムという芸術運動に興味があり、その流れで瀧口修造の詩に触れた。そのとき、わからないを通り越しておもしろいと感じた。そして、どうせわからないならとことんわからない詩を読もう、と思ったのだ。せっかくなので、瀧口修造の詩の好きな一節を載せる。

種子の魔術のための幼年
ひとつの爆発をゆめみるために幼年のひたいに
 崇高な薔薇いろの果実をえがく

瀧口修造「amphibia」

 シュルレアリスムの詩とは、一般に、普通交わらない言葉同士を並立させることで新奇な輝きを生み出すことを目的とするような言葉選びが多い。シュルレアリスムの絵によくみられるコラージュと似ている。なので、詩そのものになにか意図や思惑があるわけではない。よって、読み手に勝手に解釈する余白が多いのである。私はそこに魅力を感じた。
 そして、難解だからこそ一日一編が限界なのである。

 詩の愛好家にとっては一日一編ずつ読むなどありえないかもしれない。が、それが私の詩との付き合い方なのである。

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