時雨 1-2

「またか」
マグカップをテーブルに置きながら、彼女にそう声をかけた。
「この人の話だけはしてくれないよね」

「お母さんに聞けばいいいだろ」

「ママは学生の頃しかあまり知らないって、おじさんが詳しいって言ってたよ」
きっと彼女の母も話したくはないのだろう。もうあれから一年以上経ったとはいえ、妻の存在の喪失は誰にとっても大きかった。
「まあそうだな」
私は考えるふりをする。
彼女は少し期待して私の顔を見ている。
「綺麗な人だったよ」

「それは見たらわかるよ」
彼女が笑いながらソファに腰を下ろす。
「ねえたまには真面目に答えてよ」
私は苦笑する。
今度はしっかりと言葉を選んでみた。妻の話。エリという、一人の女性を何よりも美しいと思ったこと。言葉を紡ぐ必要などなかった。それはこの"一年間"、ずっと考えていたことだ。
「素直で自由なひとだった。誰よりも楽しもうとする人」

時間の流れが遅く感じる。それを否定するように、時計の秒針が鳴っていた。
チクタク。

「商店街とか、夏祭りの屋台とか、よく私の手を引っ張った。どこまでも素直。屈託なく笑う人だった。人に好かれるのが得意で、でもあまりにも優しいから、よくブルーにもなって。人を好きになりきれないと泣き笑う…。その倒錯紛いの不完全さを、私は愛おしいと思ったんだ」
トウカはキョトンとしている。
こういう時によく分からないことを喋りすぎてしまう。長い話は好きじゃない。着地点を見失うから。
「なんか、すごいね。そんなにスラスラ出てくるんだ」
私がまた口を開こうとした時、トウカがそう言った。我ながら大人気ないなと思う。
急に恥ずかしくなって取り繕うように返した。
「そうだな、トウカにも少し似たところがあるよ」
彼女は自慢気に微笑む。そこも妻と似ている。
「それ、ママにも言われたよ」

「でも急に真面目だね、0か100しかないじゃん」

「ああ、なんか悪いな」

「もしかしたらこの人のことなら書けるんじゃない?小説とか詩とかで」

「いや、書こうとしたことはあったんだ。でも上手くいかなかった。創作にはならなかった」
トウカの言う通り、ペンは動いた。でもそれは芸術ではなかった。
「創作にならなかった、ってどういうこと?」
彼女がそう聞いてくる。
「それは私の価値観の話だ。だから・・・」

「長くなる?」
トウカが遮った。
「そうだ。長い話は嫌いなんだ」

「わたしは好きだよ。おじさんの長い話」
私はそれを鼻で笑う。
「何が面白いのやら」
おおよそ16歳に刺さる話ではない。本音だった。
トウカは待ってますとでも言うように、砂糖のよく溶かしたカフェラテを飲んでいる。
妻はがよく好んでブラックを飲んでいたのを、ふと思い出した。

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