1-1 時雨

コトン、と、マグカップを置く音が部屋に響いた。私は立ち上がり、窓から差し込む西日に顔を顰める。カーテンを閉めて電気をつける。散乱した紙と、そこに埋もれたPC。数時間ぶりに飲んだからか、マグカップにコーヒーの跡がついていて、それが妙に鼻につく。私はすっかり溜まったため息をはいて、再び椅子に腰を下ろす。
ペンを手に取る。
やはり何も浮かばない。
それでもなんとか絞り出した言葉達はさっき、”何かが違う”という違和感に襲われて紙と一緒に投げ捨てた。
最近はずっとそうだ。何も浮かばないし、ペンが先に進まない。
しかしそのきっかけも理由も知っていた。あの日あの時からだと。
そうして物思いに耽りかけたとき、目覚ましのようにインターホンが鳴った。
恐らくトウカだろう。ここ数日は毎日のように訪ねてくるのだ。
「また来たよー!おじさん」
はい、と言って出ると、そんな明朗快活な声が聞こえた。少し苦笑いしてから"解錠"のボタンを押す。遠くなっていく鼻歌を聞いてから、私は部屋を見渡した。机を片付けようと少し考えて、辞めた。トウカは気にしないだろう。彼女は私の義理の姪ではあるが、まだ25の私におじさんと躊躇もなく呼ぶ。そこには少し抗議の気持ちがある。
コーヒーを追加しようとキッチンへ向かった。2LDKのこの家に一人で住むようになってから、私はダイニングの机で作業をするようになったのだ。
その内玄関から慌ただしい音が聞こえてきた。鍵はまたかけ忘れていたようだ。
そういうのをよく忘れるようになったのも、あの日からだったか。
彼女がリビングに入ってきた。そして紙が散乱した机を見て、私に言った。
「また何か書こうとしたの?」

「ああ、ダメだったけど」
私は自嘲気味に苦笑いする。
「まあそういうもんだよね」
彼女は少し悲しそうな顔をしてからそう言った。
「大人みたいなこと言うんだな」

「でしょー」
彼女が得意げに返す。
16。まだそんな年頃だ。
「今日も弾きに?」
彼女が最初にうちに来たきっかけは、ピアノを練習したいから、というものだった。なんでも、小学生の頃に辞めたのを後悔してるんだとか。また弾けるようになりたいと言っていた。
「んいや、決めてない。なんとなくで来ちゃった。実はここ、結構居心地いいんだよね」

「そうか」
彼女の家庭環境を考えれば、そんな発言を無下にはできなかった。
それに彼女と話す時間は苦ではない。聡い子だ。年齢にそぐわない話もできる。年相応の明るさ、あどけなさも持っている。それが今の私には心地いい。
大学時代にしていた塾講師のバイトを、彼女と接しているとよく思い出す。あれも嫌いではなかった。
私がトウカにカフェオレを作っていると、彼女が一つの写真を眺めているのに気づいた。
私が撮った、私の妻の写真。

そしてそれは今は亡き女性の写真でもある。

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