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今日の自分に関係ないと言う理由で情報をシャットアウトしてしまうと生存確率が下がると言うはなし

この話(西野亮廣エンタメ研究所の記事)を読んで思い出した。
以前も似たようなことを言っている人が何人かいて
彼らは若くて新しいテクノロジーへの興味が溢れているビジネスインフルエンサーと言われてる人たちで
でも田舎暮らしで家族との暮らしを大切に維持していたり
海外で暮らしながら自分の心地よさを追求していたり
そして彼らの共通項は、論破や人の批判に1ミリも時間を使っていないこと。
今の自分には関係(興味)のない世界をシャットアウトしてきた過去の自分にはっとして
以来本当にほんとうに自分に言い聞かせていることをちょっとかみ砕いてみようという回です。

【欲しいものだけ選べるようになった現代】

暮らしの学校がいよいよ2月からスタートするというこのタイミングで
講座の申し込み方法がこちらの準備不足で分かりにくかったと
改めて反省しながら気づいたことがある。

申込みの設定は、自分だったらどうだろう?と考えて作ったつもりだったのにな。
いったい何が悪かったのだろうとあれこれ考えていて
受け取る側の選択肢を増やすつもりが実は混乱させているのかも、と。

私は、”自分で選ぶ”ことが好き。
優柔不断でお店でメニュー選ぶときにはなかなか決められないくせに
このルートで と言われた途端にわき道へ行きたくなる。
ジムで年間会員のほうがお得ですよ と言われると、年間拘束かぁと捉えてしまって息苦しくなる始末。

そんな私だから、自分が興味のある講座だけ選べたらいいなと思った。
面白いと思えたら継続していつでも離れられる自由があること。
そこは今でも変わらない。
でも、続けるメリットをちゃんと伝えられていなかったと思う。
自分自身が、続くデメリット(拘束に対する苦痛)だけに意識が向いていた結果かもしれない。

過去に私は煩わしさがいやで携帯電話を放棄した時期があった。
(スマホが登場する少し前)

その後わけあってどうしても電話番号を持つ必要にせまられてしぶしぶスマホを持つことにした。

それまでネットで収集してきた情報は自分の意思で選んできたもの。
(のつもり)
それがスマホの登場あたりからはどんどん加速していて
広告も情報も”あなたコレお好きでしょ?”とカスタマイズされて提供してくる時代に突入。
自分で選んだ自覚なく次々と画面に出てくる情報を得て
どんどん意図せず作られた自分に見える世界の様子が構成されていくんだと思う。

よくある外国人の日本のイメージと現実の日本の違いのように
事実は見ないとわからないけど
見た事実から誰かが解釈したそれぞれの真実は無数にあるという状態。

ほんとうは知っている項目が多ければ多いほど
さらに知っているだけでなく体験として得たことが多いほど
何と、どこと、どのようにつながっているのかは見えやすいはず。

【欲しい部分だけ切り取る習慣】

今は、好きなアーティストのアルバムを買わずに気に入った楽曲だけ購入することもできる。
自分好みの曲だけ切り取ってしまう方法。

でも例えばアルバムには、そのアーティストが作り上げた世界観があり
前作からストーリーが続いていたり
アルバムの中でも物語のように起承転結で曲の構成が流れていたりする。
そこにはその人やグループの歴史があって
全部ひもとくと、一曲の歌詞の内容が最初に聞いて感じたものとは全く別の意味をなすときがある。
そしてそこに気がつけた(全体が見えた)時の感動はひとしお。

動画だって必要な箇所だけ繰り返し見返せるし、長い動画を「切り取り」で配信もしてくれる。(7歳の孫なんか、動画の好みの部分しか見ないし)
でも、前後のストーリーがわかってはじめて感じ取れるニュアンスがあるし、それは文章もおなじ。

スマホの端末とシム契約も切り離して自分都合に合わせて契約できる。

かつては選択肢もなかった電気やガスも購入先を自分で選べる。

暮らしのほぼすべてが、自分用にカスタマイズ可能になっているのが現代なのかもしれない。

よく、切り取られて炎上している案件があるけれど
ちゃんと全ての文脈をみると非難される意味がわからないことも多い様に
情報も、理解ないままに切り取ってしまうと有効活用はできないんだと思った。

【流れがあって初めて理解できるものがある】

忙しい現代社会
できるだけ要点をかいつまんで見せてほしい
全体像よりポイントだけ知りたい
自分に関係のある情報だけ切り取りたい
私自身もついついそうなりがち。

つい先日、この私がとうとうスポーツジムの体験に足を運んだときのこと。
(あまりの運動不足と筋力のなさに驚愕してw)
webで大方の情報は調べ上げ
オンラインで体験の申し込み
受付完了のために一度先方からの電話で、体験の動機、これまでの運動経験などいくつか質問を受けた。
その2日後に別の人から日時の確認の電話。
○月○日○曜日、17時からで問題ないですか?
ここまではとりあえず何も疑問を持たなかった。
前日に明日の確認の電話。これもまぁ、忘れていませんよね?の確認なので、予約受けた側としてはあたりまえよね、と思った。
更に当日電話。再度体験の動機、運動経験など2回ほどはなした内容を復唱するかのような電話でさすがにしつこい???となった。
体験からできるだけ契約へ、という会社としての意図はあってしかるべきで
当然本社からの営業指導によるものだと思うけれど
それにしても質問内容の重複がいちばん気になったところ。
でも、体験へ行ってみたら母の世代くらいの高齢の方も非常に多くおおむねリハビリ施設の様子。
前に言われたはずのことを初めて聞くような反応は、思い返せば自分にもよくあることで(反省
そこでの会員さんとの会話を聞くうちにつくづく納得した。
あぁ。だからあの繰り返しが必要だったのか、と。

人は聞きたいことしか聞かず、見たいことしか見ない。

無意識の選別により情報をかた寄らせることで、見えなくなる事実がある。

ふと『暮らしの学校』のはじまりとなった私自身の暮らしの体験と
動き出すきっかけをくれた映画『〈主婦〉の学校』を思い出した。

庭の自然と季節の食はつながっていた
体の回復と季節や気候、そして精神状態もつながっていた
精神状態とコミュニティーの広がり方も
コミュニティーの質と仕事の流れも
そこから流れてくる情報の内容も。

そして、つながっていることを体験・実感してほしくて始まった学校。
できるだけスムーズに
頭で理解するんじゃなくて腑に落とすということを目的にした講座。
だから、第1回から第10回までの流れは結構考えて組んだつもり。
食の季節しごとは、その名の通り自然のタイミングに委ねられるから季節は外せない。
外せないということは暮らしに密接しているということだから
その間を、初めは石をどけて、根の張った硬い表面をすこしずつ掘り起こし開墾していくイメージ。
雨水(知識)が浸透できずに表面を流れてしまわないように
土に栄養(知恵)が行き届くように
土をやわらかく耕すようにと作った流れ。

でも家庭菜園の初心者でありがちなのが
まずいきなり種をまきたくなること。
なるべく早く収穫したいという小さな欲。

春に土の表面に蕗のとうが顔をだすとき
いきなり登場しているわけじゃない。
春がくるまでのあいだ土の下で1年間芽吹く準備をしている。

旬のものを食べるという習慣は
その時期に身体に必要な要素が多く含まれているからで
ひとの身体も自然の一部であることの証だし

自然のバランスが破壊されてしまえば
人もその時々の栄養素を賄いきれなくなり
身体はバランスをくずしてしまう

全てにバランスが必要ということは
自分だけが多く持っていても
”満足”という意味では不毛であることに気づかせてくれるし
互いがハッピーという関係の中で得られる高揚感は
体験すれば説明はいらない。

例えばお金だって
最初から通貨そのものに価値があったわけじゃない。
もともとは暮らしのなかで必要な物資をスムーズに交換するための道具だった。
だから、じょうずに回っていれば不足を感じることもない。

順を追って受けるメリット(身につきやすい)と
続かなかった時のデメリットとその解消法(いつでもキャンセルができる)
単発でも申し込めるメリット(興味あることだけ受講できる)と
前後の流れが読めないデメリットとその解消法(アーカイブは遡って購入できるのか)
を全部伝えてから選んでもらうことが必要だったなとつくずく反省。

その時の考えの中には
私自身が「関係ないと思われる情報を無意識に排除」していたのかもしれない。
選択肢を手渡すからには
その意味をもちゃんと説明しなきゃいけない。

講座では、暮らしを中心において、食文化だけでなく、環境やエネルギーやお金、社会のしくみ、できればテクノロジーについてなんかも取り上げたいと思っている。
回り回って自分の毎日に影響を及ぼすことすべてに興味をもちたいから。

そして、情報を提供する側が”無意識の情報の選別を行わない”ということを
自分自身をとても注意深く観察しなければいけないということを
改めて思ったのでした。

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