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5、センスオブワンダー


「バッキンガム宮殿のような床にしなさい。」


 厚化粧の担任が、掃除の度に口にしていた。

 小学生がそんな宮殿知っているわけがないが、その恐ろしく赤く染まった頬と仰々しく刺さる瞳を前にしては何も言えまい。


 小学校四年生になると知らんぷりが流行った。
昨日まで話していたであろう人間に対して何を話しても反応しない、という遊びのようだった。その新しい遊びはとてもシンプルであったが、なかなか複雑であった。

 給食の時間、こちらを見ては変な顔を繰り返す女にどうしても耐え切れず「…もしかしてフルーツポンチが欲しいの?」と聞くと、不思議と別の方向から視線が刺さる。視線をもとに戻すと彼女は跡形も消えていなくなっていた。給食で余ったフルーツポンチを取り合うことは日常茶飯事なのに。
じゃんけんだって、いつだって受けて立つのに。


 わたしは気づいてしまった。
この教室はどうやら何かに支配されているらしい。


 為せば成る、そう信じて両手を空へ伸ばし、ゆっくりと身体を反ってみる。

 宙に浮いた手がわたしの視界から消えるとき、
 わたしの視界をわたしのものだと証明するものは存在しなくなる。
 そんな不安にも似た気持ちがわたしは、割と好きだ。

 手さぐりの両手が地に着いた。

 体操マットは思っている以上に固く、ざらついていた。
 

 全ての景色が逆さまである。


 最近は不思議なことが起こりすぎた。


 賢くはない私にとっては、もう一日のエネルギーは僅かであった。
次は本日の最終授業、道徳。よりによって小説の読み聞かせの順番が回ってくる日だった。この僅かなエネルギーでできるのであろうか、いや、できない。為しても成らぬことだってある。このまま世界が逆さまになったらどれほど良いものか。

 その祈りを両手に託し、再び宙を仰ぐ。

 今度はひどく大きい音をたて、私はマットの上に寝転ぶに終わった。
 左手がひどく痛んだ気がした。
 体育館の天井は意外と低いなぁ、とぼんやり思った。


物語の舞台は、空一面を黒い”なにか”におおわれた闇の国。この黒い”なにか”が太陽の光をさえぎっていて、地上にはまったく光が届かないなか、七つの塔にかこまれた城だけが光を放って輝いている。主人公がたくさんの試練に出会っては魔術を繰り広げ塔を目指し、成長していくという誰もが憧れる素敵な世界。

 こんな小説をクラスみんなで順番に読み聞かせをしても、私の痛んだ左手は見えていないようで本をめくる相手は誰もいない。
 その世界では身分制度が厳しく、階級ごとに居住区も決まっていて、その外へは一切出ないらしい。ファンタジーも現実も対してかわらないものだ。  
 わたしの視界は、たしかに右腕で本を抑えて、その右手でページをめくる手元を捉えている。


 その日は、一際バッキンガム宮殿の王妃は口うるさかった。
左手がまだ痛んだので右手だけで掃除をしている私を見るなり、手を抜いていると主張する王妃は、私を居残りワックスがけの刑に処した。右手だけのワックスがけはなかなかのもので、すぐに弱音が口から零れた。
 「右手だけで辛いなら、左手を使えばいいじゃないの」とそれらしく言う王妃が、あの本を選んだのだと思うと笑いが込みあげてきた。
 なんだか、おかしくて。
 なんだか、さみしくて。
 視界が滲む。
 ファンタジーでもなんでもない、単純に左手が痛んだ。
 「かわいそうに」
 滲んだ視界でも、たしかに私を映す瞳が怖かった。

 世界がファンタジーに染まる中も、知らんぷりは絶賛大流行中。
 願ったって痛いものは痛い。
 誰かが本を読むのを手伝ってくれるような魔術も使えない。
 空も飛べない。
 この古びた木の床も、磨いたってバッキンガム宮殿になんてならない。

「くだらないファンタジーなんかで済ますんじゃないよ。真実はいつだって目の前にあり続けるんだから、」

 そんなことしてる場合じゃないの、と嘆いた声は滲んだ世界に響き渡り、誰にも向けたものか確証が持てずにいる。

また手首が痛んできた気がして顔を上げることはできなかった。
痛む手首を、しわくちゃな手が包み込んだ。
わたしの視界には、しわくちゃな手のひらが未熟な手を包み込むのが映っていた。
澱んだ視界にぼんやり映るには、あまりにも鮮明で、あたたかかった。



 翌朝、ワックスがけのイベントなんてとうに忘れてしまっていた私は、おはようと共に盛大に尻餅をついてしまった。
笑っていたのは私とフルーツポンチが好きな女の子だけだと世界が気づいた瞬間、途端に上級層のあの子が勢いよく近づいてくる。
まずい、と思ったころにはあの子は床に座り込んでいて、視線が合わさった。
みるみる頬が赤くなるあの子に「りんごみたいね」と笑ってみたけれど、あの子の頬は赤くなるばっかりだった。王妃は笑ってなかった。

「今日の給食はフルーツポンチらしいけど?」
 わざとらしく震えた私の声が響いた。
「…あんたのそういうところが、本当に嫌いなの。」
 余程、お尻が痛いのかあの子は涙目で私を睨む。
 フルーツポンチで仲直りは安直すぎるから、
「じゃあ、今日の”センスオブワンダー”読むの手伝ってよ」
 そう言ったわたしに「”セブンスオブタワー”だよ」と、あの子は涙を流して、笑いだす。
 


視界の隅で、王妃の口元が緩んだのが見えた。


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