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北野武監督『首』は傑作か?(ネタバレ)

Netflixに上がったのを機会に、「世界のキタノ」が監督した『首』を鑑賞した。

正直なところ、そんなに期待して見たわけではない。
前作の『アウトレイジ』の最終作で、マンネリと勢いの失速を感じ、さすがに彼の才能も加齢と共に尽きようとしているように感じたからである。

ところが、である。
最新作である『首』は傑作と呼んでよいのではないか。
こんな時代劇作品は、北野武という特異な才能がなければ、絶対にこの世に生まれなかったと強く感じられる出来である。

彼はいわゆるステレオタイプ化された時代劇的な様式美から徹底的に手を切って、独自の視点から「自分の戦国時代劇」を構築してみせた。
目立つ特徴を上げておくと、

① 歌舞伎を思わせる過剰に力んだ演技の侍をまったく登場させなかったこと。

② 侍の美学というものを相対化して、「下から」戦国武将という生き物を描こうとしたところ。

③ 芸人や流民、忍者といった、あの時代に寄生していた本来なら脇にある人々を物語の表舞台に配置したこと。

まず触れなければならないのは、加瀬亮の織田信長だ。下品で本当に無茶苦茶である。サイコーだった。
見た人の中には、あまりのチンピラぶりに胸糞が悪くなった人もいるかもしれない。
しかし、おそらく、それが北野武の狙いだったのだろう。

考えてみれば、あの戦国時代という時代は、基本的に価値観や倫理がぶっ壊れた時代であり、おそらく武将というのは決して普通の人間ではありえないのである。
特に信長のように平気で比叡山の僧侶を虐殺しまくる人物に、常識人的佇まいを想定するのは非常識ですらある。

そしてこの観点は、他の武将にも適用されるべきなのだ。
秀吉・家康といった、あの狂った時代を制した人物であれば、信長に負けず劣らず奇人変人であったはずなのだから。
とすれば、明智光秀は北野人間学から見ると、常識人であったがゆえに生き残れなかったということになりそうである。
こういった洞察がこの映画では、信長の造形から一貫しているのだ。

面白いことに、こういった武将観=戦国時代観はどことなく、北野武が昭和・平成の芸能界を生きたという事実から生まれたと思わせるところがある。

昭和・平成とはいかなる時代だっかのか。
かんたんに言えば、あらゆる価値観や倫理観が溶解した時代であったであろう。
敗戦という経験を経て、戦前よりもいっそう、日本は伝統的な価値観をトータルとして蔑み、投げ打って自らを西洋近代の世界に適応させようと邁進した時代である。
そして、「天下」という言葉は、そんな時代を反映した芸能界でおそらく最も使われた言葉ではなかろうか。

芸人筋から「殿」と呼ばれている北野武はかつて紛れもなく、芸能界の「天下人」であった。
今回の映画で百姓上がりの天下人、豊臣秀吉を年齢設定を無視してでも自らが演じないでおれないのは、芸能界=戦国時代という価値観や倫理観がぶっ壊れた世界(cf.ジャニーズ問題など)でのしあがった自分を投影させずにおられなかったからだと思われる。

また、北野武自身がイメージが先行する芸能界に生きたが故に、表向きに流布するような戦国武将のカッコいいイメージはどこか嘘くさく感じていたとしてもおかしくない。

舞台裏から見れば、現実は欲にまみれていて生臭く、グロテスクであると同時に滑稽であるという視点。
北野武の特異な眼には、戦国武将と芸能人がどこか二重写しのように見えているに違いない。

とすれば、あのヤバイ造形の織田信長は、増長した大物芸能人のパロディーあるはずであり、中村獅童演じる難波茂助は、天下を夢見て売れようと足掻く若手芸人のパロディーと見た方がよいだろう。

自分の片割れを殺してまで出世しようとした茂助の姿には、ビートきよしを置いてけぼりにして天下人となった北野武その人の悲哀も投影されていると思うのは穿ちすぎだろうか。

木村祐一演じる芸人曽呂利を物語の狂言回しとしているところが、この映画の最大のミソ(うまいところ)であるが、この曽呂利も北野武の分身の一人といってよい。
戦国という世につかず離れず生きようとするが、有能であるために便利に使われてしまうという人物だ。
話芸を頼りに生きるが、どこか醒めた目で周りを見ている。そして最期はしゃべりすぎの報いを受けるのである。
芸人はすべからく、しゃべりすぎの罰で死ぬというのが北野武の思想なのかもしれない。

個人的に印象に残ったのは、北野武の自己否定とも言える二つの演技であった。

ひとつは、「中国大返し」の途上、神輿に乗って川を渡る秀吉が嘔吐するシーン。
川を渡るためにわざわざ用意された神輿に乗ることは、吐くほど大袈裟なことではあるまい。
これは、自分だけが特別扱いされ、いつも神輿に乗っているような自分自身への軽蔑を表している気がしないでもない。

二つめは、ラストシーン。
首実検をしながらすっかり退屈し、
「首なんてどうでもいいんだよ」
と言いながら生首を蹴り落とすシーンだ。
芸能界でたくさんの「生首」を見てきた自分の人生を蹴り倒して、「どうでもいい」と叫んでいるようにも見えるのである。

北野武自身がこの映画で、豊臣秀吉、難波茂助、曽呂利として三つに分裂しながら登場しているといってよいだろう。
それらから漂うのは、強烈なニヒリズム、そして自己否定への衝動という北野映画の変わらぬ主旋律であるが、とくに今回の映画は、自分の人生を色濃く反映させた自伝的な風合を持っていると感じさせた。
巨匠が晩年に放つ作品にふさわしいと言うべきだろう。

繰り返せば、こんな時代劇は、北野武という個性と才能がなければこの世に生まれなかった。
そう断言できるだけで、じゅうぶん素晴らしいのである。



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