はじめまして

はじめまして。amiと申します。
私は40代後半女性です。30代後半からパニック障害を患い、生きにくい生活をしていましたが、今はパニック発作もほぼ起きることがなく、通常の生活を取り戻しています。
ただ、病名がつくまでの3ヶ月間、ものすごい不安と焦燥感にかられ、生きた心地がしませんでした。このまま死んでしまうのではないかと悩んだ時期もありましたが、病名がついたことで安心し、自分の心と身体に向き合うことができました。
それは家族や職場の理解と協力があってこそ出来たことです。そんな話や、他愛のない日常、話しづらいですが、私のセクシュアリティについても、ゆっくりと話していけたらと思っています。

私が育った家庭は外から見ればごく普通の家庭です。しかし私と3歳下の妹がまだ幼かったころ、両親には全く会話がありませんでした。何かをきっかけに口をきかなくなったのです。それは2年間続きました。必要なことはメモが書かれ、それを私たち姉妹が渡すことで、なんとかコミュニケーションをとっていました。まるで伝書鳩ですよね。
その2年が明けたあとも、毎日のように両親はケンカしていました。時には物が空中を飛び、しかも私が大切にしていた雑誌の付録で付いていた、もしくはおもちゃとして買ってくれたドラえもんのレコードプレイヤーが壊され号泣したこともありました。
私たち姉妹が何か叱られるようなことをしてばかりだったからでしょうが、よく引っ叩かれました、母に。玄関前のちょっとしたフローリングに正座、閉め出し、布団たたき……。実に昭和的子育て。当時は周りの家庭でもたたいて育てた時代です。ウチだけが珍しかったわけではないのでしょう。
ただ母は体調が優れないことが多かったので、ままならないこともたくさんあって、それを私たち姉妹に……と穿った見方をしてしまうこともありました。母が臥せって、父が仕事、家事、育児をこなす。おふくろの味でなくおやじの味で育ちました。


私には母に構ってもらった、面倒みてもらった、とは思っても、育てられた、愛された、という認識がありません。母本人にこのことは明かしたことはありません。母は母なりに愛してくれたのだと思います。ただ私が思う愛の形と違っただけで。だから私にとってそれはしなくていいことなのです。幸い、妹やパートナー、心療内科の先生には言うことができたのでバランスが取れたのだと思います。父が手も時間も尽くしてくれたことで、警察にお世話になることなく社会に馴染んで生きることができています。


さてこれで初回の投稿を終わりにします。自分の気持ちを整理するためにも書いているものですので、何卒乱文ご了承くださいませ。




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