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オカルトを嗜む上での距離感

昔からテレビでやっていた「怖い話」が大好きだった。今はもうあまりやっていいないが、夏になると「あなたの知らない世界」という昼番組がやっていて、宜保愛子という霊能力者が出てきて心霊スポットを訪れ「ここは強い霊気を感じますね」などと言ったりしていた(大抵の場所は強い霊気を感じるのだ)お盆の時期になると、心霊番組がいっぱいやっていたし、四谷怪談もやっていた。怖い話には事欠かなかった。
最近は、怖いものが苦手な人から苦情が来るらしく、テレビでその手の番組がやることは少なくなったけど、その代わり今はYouTubeがある。昔では考えられないようなディープな話をするYouTuberがごろごろ居る。テレビで見ることはできなくなったが、youtubeで見ることができる。

オカルトというものをどう定義するかは個人によると思うが、私としては、「見えない、あやふやな世界」という括りで定義している。幽霊や宇宙人、UMA、神話や、都市伝説、全てがその箱(カテゴリ)の中に入る。昔はオカルト好きというと微妙な空気になったもんだが、今はカジュアルになって、差別もない。いい時代になった。

YouTubeやネットの普及により、昔よりも格段に早く情報に辿り着くことができるようになった。良くも悪くも。オカルトはあくまで「本当かどうかわからない曖昧なもの」という範疇を出ない。オカルトを楽しむ上で一番大事なのは、その距離感ではないだろうか。「それは絶対嘘。あり得ない」と全否定も大人気ないし、何より面白みに欠ける。かといって「これは絶対まじ!」と全肯定もやばいと言わざるを得ない。

私の距離感としては「宇宙人」「幽霊」などそのカテゴリによって態度は微妙に異なるのだが、付かず離れずの微妙な距離感は大切にしている。体感として、私は神様や見えない存在を認めている。証明はできないし、声高に言うことも決してしないが、確実に存在しているとも思う。私は、何度もそうゆう見えない存在に助けられている。そうゆう類いの話は、口にすればした瞬間から胡散臭くなってしまうもので、所謂YouTuberの人達が話されているような具体的な事象がない以上は、公表することもあるまい。言ったことによって、人に「たまたまでしょ」と言われた後の自分の気持ちのうつろいを心配している。私は、見えない存在を認めていて、彼らに対して感謝もしている。私がそう感じていることに対して、周りから茶々を入れられたくないし、考えを変えられたくないのだ。自分が認めている。これだけで十分なのだ。きっと誰しもそうゆう「少し不思議」を体感していて、大切に誰にも言わずそっと心の奥に仕舞いこんでいる人も居るだろう。それでいい。誰にも言わずに、大切に仕舞っていて欲しい。

「見えない世界」との関わり方や距離の取り方は、その人の人生観や人間性が滲み出ている気がする。私は常にそうゆうものに対してやわらかく、まるで古くからの友人のように接していたいのだ。

最近は情報開示の時代なのか、今まで出てこなかったようなすごい情報がごろごろ出てきている。もしかしたら、世界は私が思ってるよりも、最初からずっと自由で、突拍子もなかったのかもしれない。だとしたら常識と言われるものは存在せず、常に揺蕩う現実があるだけなのだ。

私達は、何でもかんでもカテゴライズしないと気が済まない。「常識」とか「普通」の箱からはみ出したものが怖くて仕方がない。何とか言葉を当て嵌めようと、小さな箱の中に押し込めようとする。でも現実はそんな単純なものじゃない。人間が知っている世界など僅か一部分だけなのだ。その一部分だけを見て、全て知ったような気になっているとしたら、大変おこがましいではないか。人間はこの世の森羅万象に触れた時、自分の卑小さを実感する。見えていない世界に想いを馳せる。目に見えている世界が全てではない。人間には感知できない世界があり、その世界もまた宇宙の一部であること。それを理解すること。それは、自分自身の宇宙と神にも気づくということだ。自分の何か分からない部分。得体の知れない深淵。自分でさえ分からないのだ。世界のことなんか分かる筈もない。

私はオカルト好きで、色んなYouTubeを好んで見ている。幽霊などの怪談。宇宙人やUMA、人怖などの都市伝説。妖怪やタイムトラベルなど多岐に渡る。神話や、妖怪、神さまの伝説なども好きだ。懇意にしているYouTuberは居るけれど、ここで公表することはないし、Twitter(現X)などでオカルト系の話をするつもりもない。もし、Twitterなどで、陰謀論や都市伝説の話をガチトーンで嬉々として語り始めたら、その瞬間に世間の私を見る目は奇異に変わるだろう!このスタンスを変えるつもりはない。

しかし、世界の真相を知ろうと思った時、この世界何かおかしくない?と感じた時、どうしたって行き着く先はオカルトなのだ。一括りにオカルトといえど、正直その中にはかなり真実味のあるものも多い。この領域はかなりリテラシーを問われるので、ミイラ取りがミイラになるような危険が多分にある。単純な好奇心と、未知への探究心で、色んな情報を浴びているけど、決して溺れてはいけない。世の中を見ていると、真偽の定かでない陰謀論に溺れている人間が無視できないくらいに居る。私は正直彼らのことを馬鹿にはできない。私だって何度か足を掬われそうになっているからだ。下手したらいつ溺れてしまうか分からない。オカルトを嗜むには、それ相応の準備と心構えが必要なのだ。安易に踏み込むと取り込まれてしまう。なので、最初に書いた通り、距離感が大切なのだ。近づき過ぎてはいけない。呑み込まれてしまうから。かといって遠過ぎてもいけない。真実が見極められなくなるから。

最近では、スマホなどで簡単に情報にアクセスできてしまう。オカルトに限らず、何でもかんでも「ネットに書いてあるから」「皆やってるから」と流されていくような思考停止人間にはならないよう気をつけたい。そのためにも私は直感力を磨く練習をしている。この話はまた別の機会に。1つ1つの情報の裏付けを取る癖はオカルト好きを自覚してからは、顕著になったけど、良い癖が付いたと思う。「テレビでやってたから」「偉い人が言ってたから間違いない」は危険すぎる。そのテレビが間違っていたらどうするんだろう。その偉い人は本当に偉い人なんだろうか。

世界はもしかしたら、とんでもなくぶっ飛んでるのかもしれない。いつか見たアニメの世界みたいに、映画の世界みたいに。いや寧ろもっとずっと素っ頓狂なのかもしれない。たかが人間の小さな脳みそで感じられる世界が全て、の時代は終わったのだ。この世界はでっかい宝島なのだ。
もっと目を見開いて世界を見るのだ。世界の綻びが少し、見えるかも知れない。




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