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ハピエン厨、「もののけ姫」で考えを変える

 映画をよく見る私だけど、長年ハピエン厨だった(え、でも普通にエイリアンとかゾンビものとか見てた)
鬱展開とかトラウマ系とかほんとにあり得ないって拒否ってた。
そんな映画見る意味あるー?なくなーい?って感じだった。
最後はニコニコ笑顔で終わりたくなーい?終わりたいよねー??(強制)

 そんなハピエン厨のジブラーの私、「もののけ姫」に出会う。
最初、まじで理解に苦しんだ。え?ちょっとまって?何でダイダラボッチ首飛んだん?エボシ何で死なへんの?は?って感じのくそみたいな感想しか出てこない。兎に角、当時アメリカ産の量産映画しか見てなかった私は文字通り混乱する。(この時点でナウシカは、自分の意識外にあった)しかし、アシタカはかっこいいし、冒頭のタタリ神の登場シーン癖になるし、ヤックル可愛いので、当時の私は理解できないながらも狂ったように「もののけ姫」を見まくった。何だあの中毒性は。冒頭のタタリ神登場からアシタカに討たれるまでのシーンを10回くらい繰り返し見ていて、母親に「何が面白いん?」と言われる。
今まで見ていた映画の中の世界では、「イイもん」と「悪いもん」が居て、最後は悪い奴が懲らしめられ(或いは殺され)めでたしめでたしで終わっていた。「もののけ姫」は何だ、アシタカの痣は消えないし、デイダラボッチは死ぬし、エボシは死なないし、森は無くなるし、散々ではないか。ハピエンとはかけ離れている。私は暫く呆然とした。
まだ学生で若かった私にとって、かの映画は難解で、複雑で、多感な私を大いに苦しませた。
暫く、何故あの時デイダラボッチを救わなかったか、エボシを殺さなかったかという主に2点について、私は考え続けていた。

 また、ハピエン厨の私が一体今までどんな映画を見てきたか、ということにも触れておこう。
私が「映画」というものに初めて触れたのは、皆さんよくご存知の金曜ロードショーだ。私が「もののけ姫」以前に見ていた映画は、主に金曜ロードショーで放送されていたものだ。私は金曜ロードショーで映画を知った。今となっては金曜ロードショーのみその姿を残しているが、私が幼少期の頃には木曜洋画劇場、火曜映画劇場なんていう番組もあった。金曜の夜ということもあってか、私にとって映画を流すテレビ番組は金曜ロードショーが1番馴染み深かった。
学校の土曜日が完全休日になったのはいつの頃だったか忘れたが、土曜日の前の日にテレビの前に集まって映画を見ることは、我が家の1つのイベントになっていた。「天使にラブソングを」「エイリアン」「インディ・ジョーンズ」「グレムリン」「マトリックス」「E.T」「MIB」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ジブリの映画全般。映画が好きな人なら一度は見たことがある映画たち。何も考えずに見れるし、最後スカッとして気持ちよく終わるし、見てる間とても楽しい。金曜の夜は楽しい映画を見て、気持ちよく眠りについていた。未だにこの辺りに見た映画は大好きだし、定期的に見返したくなる。
ハピエン映画を否定する気は毛頭ないのだが、ハピエン映画は大体その映画の中で完結する。ハピエン映画の目的は、見ている人をハッピーにすることだし、わくわくさせることだし、見た後明日から頑張れるような気持ちになることなので、映画の目的は果たしているし、気持ちよく寝床に就ければそれでいいのだ。

「もののけ姫」と出会ってしまった私は、色々考えざるを得なかった。
暫くは、納得できずに「何でやー。何でやー」を繰り返していたのだが(私はバカだったのだ)徐々に世界観を受け入れ始める。当時の私はジブラーではあったが、正直そこまでの深さはない。皆が見るから、金曜ロードショーでやってるから、と何となくでジブリを見ていたくそにわかジブラーだったので、この時点ではナウシカをよく分からないからと敬遠していたし、全く理解していなかった。(正直、今も理解しているかは微妙だ)
そんな私は「もののけ姫」にどハマりし、動揺し、困惑した。
まず、この「もののけ姫」の世界には、洋画にありがちな明確な「悪役」というものが存在しない。先程書いたエボシは、確かにシシ神の首を討ち取った「悪役」と言えなくもないが、作中ではタタラ製鉄所の長をしており、売られている娘は放っておけずに買って自分の製鉄所で働かせるという一面もある。私はまずそこに困惑した。悪役が居ない・・・だと?悪役と思われるエボシには、売られた娘を助けるような良い一面も存在し、実際エボシに救われたトキはエボシを慕っている。エボシに銃を撃たれた、映画冒頭で登場したタタリ神であるナゴの神や猪達からすればエボシは完全な「悪」なのだが、トキたち救われた者達からすると、エボシはイイ人どころかヒーローなのだ。私はエボシに何とも言えない気持ちを抱いた(劇中のアシタカのように)(私の腕にアシタカと同じような痣があったならば、きっとのたうち回っていたことだろう)

 また、シシ神を殺す理由もその血を飲めば不老不死になれるということで、ジコ坊が天朝よりシシ神殺しを許可され、エボシにそれを依頼した経緯がある。正直めちゃめちゃややこしい。エボシとしては、今以上にタタラ場を大きくする為、森に蔓延る猪や狼たちが邪魔なので、利害の一致としてジコ坊に協力し、シシ神退治に参加したようだ。
確かに現実世界ってそんな単純じゃないよなー。
私はその時思った。今まで何も考えずに映画をただ面白いと浴びるように見ていた時、そこで私は立止まって何かを考えようとしただろうか。
勿論、ハピエン映画を見てたって、色々考えることはある。「天使にラブソングを」では歌ってイイなぁと思ったし、「トータル・リコール」を見て、映画の表現力、演出について考えたりした。
でも、世界は未だ混沌の中にあって、夢物語ばかりに夢想していることもできないという現実が横たわっている。
何で宮崎駿は「もののけ姫」を作ったんだろう。
私はこの映画を見た時、思い切り頬を打たれた気がした。今まで浸かっていたぬるま湯から、冷水を浴びせかけられたような錯覚を起こす。
ハピエン映画を見続けて、その中で幸福を完結させられる人生ならばどんなに良いだろう。どんなにか楽だろうか。世界は混沌としてるけど、映画を見たらハッピー、それでイイじゃないか。さぁ、風呂には入って寝よう。
それはきっと、「マトリックス」の中で眠り込む人類そのものじゃないだろうか。いくら夢で目を塞いだって、目の前に問題はごろごろしてる訳だ。いくら映画で蓋をしたって、それはもう蓋から溢れ出ているじゃないか。宮崎駿は、人間のしてきてことを無視して「となりのトトロ」を見せたことに、疑問を持ったんじゃないのか。私達人間のしてきたことをちゃんと分からせた上で、「となりのトトロ」を見て欲しかったんじゃないのか。

この世界には問題がゴロゴロある。
それはもう沢山ある。でも、意識しなければ、隠されているならば、そこに気付くことすらできない。意識的に隠されている問題もあるだろう。
きっと、そんな現実に賢い人はすぐに気づいていたのかもしれない。私がハピエンに耽っている間、気付く人はどんどん気付いていって、世界をもっと深く知っていたのかもしれない。私は、「もののけ姫」がキッカケだったのだ。私はそこがスタートラインだったのだ。そこで私は新たな視座を獲得した。世界には色んな見方があることに気付かされた。
世界はその人の価値観によって、来歴によって、感受性によって変化するものなのだ。世界は深くて複雑で、様々な色に満ち満ちている。それは時にやさしく、時に暴力的に私達の目の前に現れる。

目が覚めた時に見えた世界は鮮やかで、空は残酷なくらい晴れていた。

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