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二人でこれからを決めようか【小説】

「先輩、天使になってくれませんか」
「天使?」
「今度の夏コンです、私が悪魔になるから」
 えりはやっと思い出した。夏コンはこの高校の行事の一つで、「天使と悪魔」といわれる二人組を組んで、学校改革案を考えるアイデアコンテストだ。任意参加だし、もう三年だからいいや、と思っていた。
 学校改革といってもほんの些細なことでいい。去年の優勝は、購買でチョコレート菓子を売る計画だった。購買ではお菓子が売られていなかったが、チョコレート菓子だけ売られるようになった。経緯はよく知らない。正直、コンテストの概要もよく覚えていない。これまでのえりにとっては、そんな認識だった。
「何で?」
「そりゃあ、この現状を打破したいから」
 ほのかが周囲をぐるりと指さした。スッと風を切った音が聞こえそうなほど、ここには人がいない。えりとほのか以外、誰も。
「図書室に誰もいないっておかしくないですか」
「私はいるよ」
「先輩しかいない」
 少し荒げた声も、この図書室では気にする人はいない。誰もいないのだから。
「図書室に人を増やしましょう、ね、先輩」
 私は別に、と言いかけてえりは飲み込んだ。そして言い直す。
 ほのかとなら、変われる気がしたから。
「よし、乗ろうじゃないの」


 そもそも、えりが図書室にいるのはまじめだからではない。逃げだった。
 高校三年になったえりは、就職の気も起きず、だからと言って進学するにもやりたいことがないような、どちらかと言えばふまじめな生徒だった。
 実のところ、自分ではふまじめとは思っていない。十七歳で全てを決めろなんて無理で、ちゃんとできる人のほうがおかしい、と。
 親には進学しろ、予備校に行けと二年の冬から言われていた。成績はいつも下から数えたほうがずっと早いのに。
 委員会も任意だからやる気はなかった。しかし、なかなか決まらないホームルームで、担任が「委員会は推薦に有利だ」と言ったので図書委員に手を挙げた。
 推薦、それはえりにとって甘美な響き。高校受験のとき、私立に行く人たちが「推薦とれた」と言って勉強しなくなるのを横目で見ていた。えりは公立志望だったから、二月まで勉強し、いや、たいして勉強しなかったけれど、一応受験というものをやった。だから今度はあの「推薦」とやらで大学へ行こうと思った。それで十七歳をしのげるなら。
 予備校に行けと相変わらずうるさい親をどう黙らせるか考えた末、たどり着いたのが図書室だった。放課後、どうにかして暇を潰すのにも飽きてここへ流れ着いた。委員会活動という言い訳でここに座っていれば、遅くまで残っていられる。そうすれば、学校で勉強しているからと親を説得できた。もちろん勉強する気なんて全くなかった。委員会活動なんて何をするかも知らない。
 誰もいない放課後の図書室に入り込んだ日、意外にもえりは「自分」を見つけた。図書室では、心だけがふわふわと浮かぶ。体がないみたいに楽になる。いつも何気なく手探りしてしまうスマートフォンは電源を消したままで、どこにも繋がらない。この瞬間と自分のことしか考えなくていい。何だか好きになれそうな場所だ。だから、貸出カウンターに座って、湿っぽい本の群れを眺めているのが一番の平穏になりそうな予感だったのに。
 ほのかが現れるまでは。
 何日目かに、図書室に人が来た。えりは驚いたが、それ以上にその子が驚いていた。聞くと、この前入学した一年だと言う。図書委員になったものの、図書室に人がいたことがないから驚いたらしい。はじめは小さくなっていたほのかは、委員会活動をしようと言い出した。委員会なんて機能していないし、図書室も眠ったままなのに、ほのかはきちんと仕事をする。えりは貸出カウンターから引っ張り出され、ぐちゃぐちゃだった書架の本を順番に直した。図書室はアイロンがけされたスカートみたいにぴしっとした。それが意外と楽しかった。今まで、こんなに何かをしたことはなかった。
 ほのかがえりを変えてくれた。きっと夏コンでも変えてくれる。


「アイデア、あるの?」
「今から一緒に考えるんですよ」
 つまり、何もないってことだ。えりは少しがっかりした。ほのかがえりを変えてくれるとばかり思っていたから。
「何かあるのかと思ってた」
「何かあったら先輩を頼ってないですね」
 ほのかは気まずそうな顔をする。あんなにしっかり司書のような仕事ぶりをするほのかでにも限界はあって、この空間を人で満たす力なんてないのだ。可愛く思えた。
「先輩、何かありませんか、アイデア」
「あるわけないじゃん」
 えりはそう言って、手元の赤いノートを撫でるように優しく開く。
「何ですか、それ?」
「日本史のノートだけど」
 このノートを開くと、空気があふれてくるようで、えりは好きだった。スマートフォンから出てくるのが都会の空気なら、これはもっと純粋な空気。日本史はえりの唯一の得意教科で、ギッシリ詰まった字とよれた表紙がえりを安心させる。
「それだ!」
 ほのかが叫んだ。
「試験に役立つことを書いて、図書室に貼ることにしましょう」
 いかにもまじめなほのからしい案だと思った。
「この案に賛成って言う意見を集めて夏コンで発表すれば、みんなで、書いたりして……きっと……」
 だんだんと声が小さくなる。自分に言い聞かせるようにつぶやくほのかは、その案自体にはあまり意味がないのをよく知っていた。
 えりはこの瞬間に楽しいことだけを考えた。
「ねえ、夏コンって案だけ出せばいいの?」
「アイデアコンテストなんで、いい案が優勝しますけど」
「それ、先にやっちゃだめなのかな」
 ほのかはまだ下を向いたままだ。それでは誰も付いて来ないよ、とえりは思う。ほのかが前を向いて手を引いてくれたから、えりはあれだけ変われた。はじめて何かができた。だから今度はえりが前を歩く番。
 えりはこの瞬間と自分のことだけ考える。変わるのは楽しいんだ。何かをするのも。ほのかのためではない。自分のために、口を開く。
「ほのかちゃんは夏コンで優勝したい?」
「優勝すれば人が来るかと」
「図書室に人が来ればいいんでしょ、優勝しなくても」
 えりの言葉はまるで、本当に人を呼ぶ魔法を持っているかのようで、ほのかはゆっくりとえりを見た。えりは心が向く方向だけに集中して言った。
「やっちゃお、二人で」
 ほのかは鼻がツンとした。もう一人ではない。


 やっちゃお、と言ってからのえりはあまりに無力だった。何をどうすればいいのか分からなかった。
 しかし、今度はほのかが強かった。手際良く紙とペンを用意し、下書きはこれに、清書はこっちで、と書いていった。
「すごいね、ほのかちゃんは」
「中学で図書新聞を書いていたので」
 ほのかが当然のように言うその単語を、えりはよく知らなかった。
「図書新聞?」
「知らないんですか」
 あまりにも無知なえりを、ほのかは呆れていると思った。
「ごめん」
「違うんです、怒ってるんじゃなくて」
 ほのかは呆れていない。ただ、動揺した。中学のときは、図書新聞を書けば当然見てくれる人がいて、そこに書いたおすすめの本を借りてくれる人がいた。だからてっきり、図書新聞はみんなが知っているものだと思っていた。
 えりは頑張って記憶を遡る。図書新聞。確か、授業で音楽室に行くとき通る図書室前の廊下に、何か貼られていたような気がする。それが、誰かが頑張って書いたものという認識が今までまるでなかった。背景としてしか見ていなかったのだ。えりは急に背筋が凍った。ここにある本も全部、誰かの想いが詰まったものなのか。自分は全部見過ごしてきたのか。
 ほのかは不安になる。図書新聞を知らない人がいるなら、もしかして、今からやろうとしていることも無駄なのではないか。今まで書いた図書新聞たちも、もしかして、意味がなかったのではないか。
「ごめん、ほのかちゃん」
 えりはほのかを抱きしめた。これからは、目の前のものを大事にしたい。まずはほのかだ。
 ほのかはえりの腕の中で「やめますか」と小声でつぶやいた。
「やりたくない?」
「わかんない……」
「私はやりたいな」
 今できることをやってみたい。
 ほのかもえりを小さく抱きしめ返した。えりの顔は見えなかったけれど、きっと天使のように優しい。


 あれから二人で、自分の得意教科を掲示物にし続けた。それを貼り、関連する本を展示した。掲示物の作り方は、ほのかが教えてくれた。本の展示を提案したのはえり。図書新聞を見て本を借りた人がいたなら、近くにあったほうがもっと効果的だ、と考えてそれを言ったわけではない。調べるのに使った本を戻すのが面倒になっただけだった。しかし、その効果を高める展示をほのかが考えてくれた。綺麗に整理した書架はだんだん崩れていったけれど、図書室は息ができるようになったみたいだ。
 理科の得意なほのかは、化学式から生物の進化まで、すっかりわかりやすくまとめてしまった。最初は図書室の中でしか貼っていなかったそれは、廊下まではみ出していき、人を呼び込んだ。展示した本が、人に借りられた。
 ほのかの見よう見まねで掲示物を作っていたえりも、気がつけばほのかの枚数以上に書いていた。はじめの頃に書いたのは気に入らなくて書き直したし、世界史にも手をのばしたからだ。
 試験期間が近づくと、ほのかがまた悩むの見た。試験勉強をしたいが、書くのもやめたくない。見かねたえりは、時間を決めて一緒に試験勉強をすることにした。結果、過去最高の順位になってしまった。
 変わる自分が嬉しくて、えりは加速していく。ほのかが一緒に来てくれると知っているから。


 ポスターを作った。この取り組みを知ってもらうためのポスターだ。
 全クラスに貼った日の放課後、昨日と同じように掲示物を書いていると、カウンター越しに知らない生徒から声をかけられた。
 最近ではもう、本を借りに誰かが訪れるのは日常になった。しかし、その子の手には、数枚の紙。
「書いてみたんです、これ……」
 それは数学の解説だった。
 驚き固まるほのかの手を取り、えりは笑った。
「一緒にやろう!」
 ほのかもその子も笑顔になった。
 えりは、ほのかの後押しをすると決めている。


 夏コンが終わる頃には、図書室はほのかが望んだ姿に変わった。人が出入りする場所へと。協力してくれる生徒もどんどん現れた。活動の認知は高まり、夏コンは問答無用で優勝した。
 ほのかは、ふと考える。夏コンはなぜ「天使と悪魔」なのか。真意は知らないけれど、ほのかにとってえりは、どちらかと言えば悪魔だったように思う。どんなことも「やっちゃお」と言ってくれる悪魔だ。
 日が暮れて誰もいなくなった図書室は、眠る準備を始める。下校時刻は少し過ぎていた。すっかり珍しくなった、二人きりの図書室。
「優勝おめでとう、夢が叶ったね」
 電気を消すと、外からの明かりで二人だけが照らされた。
「ありがとうございます」
 ほのかはうつむく。
 たくさんの人が訪れるようになると、ほのかは寂しくなった。それを「自分だけの図書室ではなくなった」せいにしていた。本当は、自分だけのものではなくなったのは、えりなんだ。
 夏コンの優勝と共に、「天使と悪魔」と胸を張って言える期間は終わってしまった。これからもえりが一緒にいてくれる保証はない。少なくとも、えりは先に卒業してしまう。ほのかは無力だ。しっかり者と言われることが多いが、そんなの嘘だ。意味がない。
 えりは考え込むほのかに、箱を差し出しながら言う。
「だから」
 えりは小さな石の付いたネックレスをほのかに見せた。
「これからもよろしくね」
 おそろいのネックレスなんて引かれるだろうかとえりは思ったが、やりたいことはもう何でもやると決めたのだ。中途半端にしないで、逃げないで、この瞬間を積み上げる。「これから」を自分で決める。
 ほのかは色々考えた自分が馬鹿らしくなった。えりのこと、何を見て好きになったのか。自分の気持ちにまっすぐで、安心感をくれるところではないか。
「もちろんです」
 今度はちゃんと、ほのかのほうからえりを抱きしめた。

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