見出し画像

禍福は糾える縄の如し 2024/04/19

 一日のうちに船二隻を見学し、帰宅後僕はさっそく活動記録にとりかかろうとしていた。台所には母が立っており、父は今まさに風呂から上がり、着替えたうえで1週間の疲れを酒を少々飲むことで解消しようとしていた。
 そうして僕が活動記録を打ち出したまさにその時、その後ろから「うわあっ」という何とも間の抜けたような声と共に奔流が迫ってくるのが見えた。なぜ後ろのことが分かったかといえば、その声の持つ深刻な響きに思わず手を止めて振り返ってしまったからだが。いったい何なのだろう。何か、事故でも起きたのか。そう思って振り返った瞬間、父の手元から白い奔流が吹き出し、僕の顔面向けて飛び込んでくることとなった。
 まずは、この事件の背景を説明しよう。この日、父は大喜びで「二兎」という酒を購入してきた。父はいつも「村祐」及び「二兎」を好んで飲むためそれだけならばいつもと変わらない。だが、その「二兎」には「スパークリング」と書いてあった。そのため父は全く揺らすことないよう慎重に慎重に持って帰ってきたのだという。
 そうして対策をしていたというのにもかかわらず父は心配症で、泡がないことを厳重に確認してようやく栓を空けようとした。そして、開けたその時。不意に泡がせりあがってきて一斉に噴出を開始した。
 あの時一番驚いていたのは確実に父だっただろう。泡は留まるところを知らずに吹き出し続け、部屋中のものに飛び散った。幸いパソコンは僕が、服などは父が、反射的に体でかばったためそこまでの被害は出なかったものの、360度全周に被害を及ぼさないことなどできるはずもない。もしもその時冷静さがあればすぐに栓をはめるという行為ができたのだが、なにぶん急なものであったために僕たちは多分に冷静さを欠いていた。
 しばらくして噴出が止まり、かばう必要のなくなった僕たちはすぐに動き始める。ただちに母と共にタオルケットとティッシュペーパーなどを持ち込んで被害の及んだ場所から雫を拭き取る作業を実行し始めた。
 とっさに自身の体で庇うことができたとはいえ、被害は甚大。付近にあった塩野七生の「ローマ人の物語 最後の努力」や「ギリシア人の物語」及びアルジャーノン・ブラックウッドの「ウェンディゴ」(全て父の私物)などにも被害は及んでいた。それらの本と、本棚に収まった僕の「沈黙の春」や「刺青の男」、「ラヴクラフト全集」に「ソロモンの指輪」などの本たち。及びテレビや椅子、絨毯などにもかかり染みとなったそれを懇切丁寧にふき取ってゆく。
 しばらく経ってあらかた掃除を終えたころ。ようやく一息つくことのできた父が短い叫びを上げた。曰く、こんな場所になぜわざわざ特殊な注意書きを書くのか、と。せめて口頭で伝えてほしかった、とも。そこには次のように注意書きがなされていた。

キャップを空けると中身が噴き出します。     
少し開けて泡が上がってきたら閉めるを繰り返し、 
お酒が噴き出さない事を確認して開封してください。

 こんなものを、それも赤文字で書かないというのはいったい何のつもりなのだろうか。酔っ払いたちはこれを読むのであろうか。いいや、それはないと父は目を爛々と光らせながら力説を繰り返していた。たしかにそうだが、これからはもうこうした失敗は起きないだろう。そういう警告をするために(とても親切とはいいがたいが)この酒はあるのかもしれない。
 なお、父はここで酒のほとんどを失ってしまったものの、その翌々日ごろにとある場所から酒を1本譲り受けた。まさに、禍福は糾える縄の如し。悪いことがあればよいこともある。結局のところ損はしなかったのだから、結果を見ればよかったといえるのではないだろうか。

噴き出た後、残った酒の量はこれだけだった

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?