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(小説)山に眠る鳥たち -6-

 夜明けまでにはまだ少し早い。地震の時に守り抜いたおばあちゃんのアンティークランプの丸い電球だけが部屋を照らしている。真紀ちゃんがおばあちゃんの大切にしていた道具たちをいたく気に入って、好きなようにしているけれど、このミルクガラスのランプだけは、どうしても真紀ちゃんに触らせたくなくて自室に持ち込んだ。ベッドの上で寝返りを打って、よじれたオルケットを掛け直す。体全体からじわりと汗が滲み出ている。ベッドの左脇のガラス窓をスライドさせると、カーテンはゆらぎ、ひんやりする風が通った。
 帰宅した俊君が遠慮がちに階段を上る。どんなに気を使っても、階段や廊下の床が、しなって鳴くので、浅い眠りの時は目を覚ましてしまう。下の台所の柱時計が四回、鐘を打った。それにしても今日は随分と俊君の帰りが遅い。最近、遅く帰ってくる日が続いているけれど、こんな時間になるのは初めてだ。
「今、着いたよ。大丈夫……」
隣の部屋にいる俊君の声が壁を越して耳に入ってくる。絵理奈さんに話し掛けているのだろうか。二人が世界を隔ててから、まだ半年も経っていない。話したい事があって当然……。私はズッと鼻水を啜った。
「みちるさんも早く寝て」
 ティッシュに伸ばした指先を、吸う息と一緒に止める。みちる。聞いたことのない名前だ。続けて携帯を畳むプラスチックが噛み合ってぶつかる音がした。深夜に帰って来ることが増えて、携帯電話で「今、着いた」と言って「みちるさん」と呼び「早く寝て」と囁くことが指すものって……もしかして、新たに好きな人ができたのだろうか。今まで、身内だと思っていたから感じなかったけれど、俊君だって生身の男だ。
 俊君が帰って来てから頭が冴えて眠れなかった。今朝の台所にはテレビのニュースの声と、柱時計が6回鐘を打つ音と、外で雀が出す声と、いつもより苛立ち気味の真紀ちゃんが、それぞれ我関せずばらばらに混在していた。俊君が「おはよう」と、寝起きの低い声で階段を下りて来た。二時間しか俊君は眠っていないはずだ。くせのある髪の毛をふわふわと歩くたびに揺らして、寝不足の浮腫んだ目にメガネを当てて、俊君はリモコンでテレビのチャンネルを換えた。
「見てたのに」
 真紀ちゃんが刺々しく台所から声を放ったが、俊君には届かなかった。私は知らん顔で真紀ちゃんが作ってくれた目玉焼きと、スープと、コーヒーを三人分、テーブルに並べた。昨夜の俊君の話し声が、真紀ちゃんも聞こえていたのかもしれない。明け方は特に静かだから家の中に声が通る。それで真紀ちゃんは不機嫌になっているのだと思う。パンを齧りながら真紀ちゃんの丸い目が俊君を捉えて離さない。
「どうかした?」
 俊君は堪らず訊いた。
「だから、……どう思ってるのかって」
「どうって?」
「……リフォームのこと。ここの」
 私の目は、唇に乗せたままのコーヒーカップの縁に沿って二人の間を行き来する。リフォーム問題は先日のママの一件以来、宙ぶらりんのままだ。
「真紀ちゃんとアキちゃんの好きにしていいよ。ただ、いつまでかは分からないけど、もうちょっと俺をここに居させて」
「ここは俊君の家でもあるから」
「ここは俊君の家でもあるから」
 私と真紀ちゃんは同時に同じことを言った。女二人の勢いに俊君は引き気味の笑顔を作った。

 夕方、柱時計が六回鐘を打った。私は冷蔵庫から缶ビールを出して、頭を切り替えるように勢いよくゴクゴク飲んだ。
「帰りが遅くなる」と、たった今、俊君と真紀ちゃん揃って連絡してきた。遅くなるなら、もっと早く連絡して欲しい。ご飯はもう出来上がっている。
三人の生活に慣れてしまって、山奥の広い家で、一人で居るのが怖いのだ。夜行性の動物がうろうろし、虫は集中してこの家の光に寄ってくる。熊が来ませんように、蛇もスズメバチも、ついでに地震も泥棒も来ませんように。茹でた枝豆以外の料理にラップをして冷蔵庫に入れた。有紀叔母さんが買ってくれた大きな新品の冷蔵庫は台所の中で異質に輝いている。台所の壁のタイルにはひびがあるし、蛇口から出る水の温度は一定を保てなくなっている。シンクも低くて使いづらい。おばあちゃんが綺麗好きだったから、油のこびり付きはまだマシにしても、ガスコンロはもう二十年も前のものだ。いくら古いものが好きでも、やはり生活が優先だから、私は考えを改めたほうが良いのかもしれない。

 八時過ぎ。「友人と会う」と連絡を寄越した真紀ちゃんが、女友達三人を引き連れて帰って来た。私を見つけた三人は、誰?といった眼差しを向けつつ、こんちはー、しつれいしまーす、と軽く会釈しながら、廊下に立つ私の前を並んで通り過ぎる。最初の人は茶髪で一直線に切り揃えられた前髪が印象的だ。二人目は指先全てに真っ黒なマニキュア、最後に入って来た人に至っては、左手首にブレスレットを象ったタトゥーが入っている。上品な金色の高級腕時計をした、黒髪のお嬢様の真紀ちゃんとは随分掛け離れた人たちだ。三人とも音大の同級生らしい。
「いとこのアキちゃん。医学部の学生だよ。うちらと同い年だから」
真紀ちゃんが三人に私を紹介した。前髪ぱっつんさんが「よろしくね」と人懐っこそうな笑顔を見せた。黒マ二キュアさんは、真紀ちゃんから受け取った缶ビールを配りながら、「どもー」と返事をした。タトゥーさんは窓の桟に肘を掛けて、外に向かって紫煙を吐き、私の顔を確認するように一瞬だけ振り向いて会釈した。三人とも自ら名乗る気はないようだ。医学生だと言えば、大抵の人は目を輝かせて「すごい」とか「優秀」とか、賛辞を口から滑らすように並べるのに、彼女達は私に興味を示さなかった。あっさり流されて私は腹立たしく思った。「医学生」の肩書は多少なりとも自分の中で価値があるらしいことに気が付いて、複雑な腹の内になる。
「あとはごゆっくり。私、先に寝るね」 
 三人をもてなすのに必死な真紀ちゃんは、私が夕食用に作った野菜炒めを取り分けている。真紀ちゃんと俊君と私のおかずだったのに。こういうとこ、真紀ちゃんてデリカシーに欠けている。
「邪魔だったんじゃない? あたしたち」
 煙を揺らしながらタトゥーが苦笑いをした。タトゥーの一言で真紀ちゃんは手を止めて私を見た。三人の手前、謝るに謝れない真紀ちゃんと、怒るに怒れない私の微妙な空気が場を凍らせた。
「定禅寺ジャズフェスに一緒に出ることになって」
「ジャズフェス……?」
「バンドの仲間を、アキちゃんに紹介したくて」
 バンドを始めることも、ジャズフェスに出ることも初耳だ。真紀ちゃんが友人達に囲まれている姿に苛立つ。真紀ちゃんに越された気分だ。それにこの家は安住の地だったはずだ。正直、他人なんか連れ込んで欲しくない。
「やっぱ帰った方がよくない? 怒ってるよー」
 タトゥーが私を指さして、馬鹿にしたように笑って立ち上がると、後の二人も続いた。真紀ちゃんは、ばつの悪そうな表情で私の顔色を伺ったが、何も話さず三人と共に車で出て行った。急に真紀ちゃんが遠い人に思える。
 真紀ちゃんの車が去った、タイヤの跡が残る地面を、私はただぼーっと見つめていた。ちらちらと羽を動かす蛾が視界に入ってきて、網戸に張り付いた。零時過ぎて、俊君はまた遅い帰宅をし、真紀ちゃんはあれきり戻ってこない。

 秋雨前線が東北に達したことを天気予報で知る。中学時代の友人の結婚式の招待状が届いた。二十四歳。結婚してもおかしくない歳になった。招待状を前にして、出席に丸を付けるべきかどうか悩む。
「今何してる?」って訊かれたらなんと答えようか――。
 大きく開け放っている縁側の向こうでは、楓の葉が掌で雨粒を受け取る格好だ。ひと夏を通して、濃い緑を芯まで蓄えたその手は、まるで経験を積んだベテランの如く。
 縁側は俊君のお気に入りの場所。彼はさっき出勤してしまった。雨の日に真紀ちゃんが好んで弾く、ドビュシー「亜麻色の髪の乙女」の音色もない。
一人の一日は平らに過ぎていく。灰色の空から降る雨の音は、私をまた不安にさせる。

九月第二土曜日。
ジャズフェス開催日。
 久しぶりの晴天は太陽が強烈過ぎて立っているのが辛いくらいだ。全てがたゆたう正午。すれ違う女性の日傘がぶつかって謝られる。丸くつばの付いた生成りの帽子を被って、グレーのTシャツを着て、綿の水色縦ストライプのAラインスカートを穿いて、背中には随分長く使っているキャメル色のリュック、足元は白地にブラウンのラインが入ったデッキシューズで、私は仙台パルコの前に来ている。ここは、生家であるマンションから近い。一昨年までは、ジャズフェスは近所の行事といった感覚だった。
 真紀ちゃんはあの夜から一度も泉ヶ岳の家に帰っていない。連絡も途絶えている。心配になって、真紀ちゃんのツイッターを開いたら、ステージの時間と場所がつぶやかれていた。元気なのに、電話一本くれないとは。真紀ちゃんに寄せた信頼をへし折りたい衝動が起きる。ステージで失敗すればいい。泣いて、落ち込んでショックを受ければいい。真紀ちゃんがコンクールで落選し続けたことが、今の私にとっては救いだ。真紀ちゃんが全てうまくいっていたのなら、私は優しく接することができたのだろうか――。
 ギターのチューニングの音がする。マイクの声の発信地だと思われる所には、緩やかに三重くらいの人の輪ができていた。隙間から覗くとヴォーカルのマイクを持つ指が、見覚えのある黒マニキュアだ。観客の層が薄い、輪の脇の方に私は回り込んだ。ギターを持つ手首には、あのタトゥー。前髪ぱっつんがドラムを叩いて、黒マニキュア越しに、キーボードに向かう真紀ちゃんが、熱気で揺らいで見えた。
「ラヴィン・ユー」
 私の好きな曲だ。どうしてこの曲なのだ。この人たちには弾いて欲しくない。似合わない。嫉妬に突き動かされて、見に来ずにはいられなかった。真紀ちゃんを「大嫌い」になる理由が欲しい。自分は間違っていないと確かめたい。
 くりんくりんに巻いた黒髪、普段ベージュかピンクの唇は、今日は深紅で、ラメの入った深緑のエキゾチックなノンスリーブのワンピース姿の真紀ちゃんが、観客に手を振って可愛らしくウインクした。仲間たちとハイタッチして、髪の毛もネックレスも、ワンピースの裾までもが嬉しそうに跳ね上がる。全身から真紀ちゃんのエネルギーがほとばしっている。私のいない世界がそんなに楽しいのか。私をも「リセット」なのか。
お願いだから、失敗して――
 身を硬くして、じっと祈る。どんなミスも拾いたくて、耳を研ぎ澄ます。演奏、止まれ。こんなステージ、めちゃめちゃになってしまえ……!

 こめかみから吹き出す汗が滴り落ちて、目を開く。演奏が緩やかになって、静まりかけた頃、大きな拍手が起きた。私は人だかりの裏にこっそり後ずさって、身を隠すように、リュックの肩ひもをぎゅっと両手で胸元に引き寄せて、ステージから離れた。
 どこに向けて気持ちの舵を切れば良いのだろう。真紀ちゃんの成功を喜べない卑屈な自分を正せばよいのか、成功を手にした真紀ちゃんに嫉妬を丸ごとぶつければいいのか。俯いた視線の先に、つま先の開いた夏向きのベージュのパンプスと、蛍光ピンクの紐で彩られたナイキのスニーカーが現れて、私の名を呼んだ。
「やっぱりアキちゃんだ」
 聞き覚えのある声の主を見上げると、有紀叔母さんと真央ちゃんの顔が逆光の中に次第に浮かび上がった。二人も真紀ちゃんのステージを見に来ていたのだ。迂闊だった。真紀ちゃんの家族は、いつだって娘に肯定的で全力応援だ。ここに見に来ない訳がない。私の歪な表情を見られてしまったかも知れない。
「真紀を観に来てくれたのね」
「うん……」
 気まずさで、喉がぎゅっとなる。そう言えば、暫く飲み物を口にしていない。
「これから、お姉ちゃんの家へ行くけど、晶ちゃんも行くでしょ? 一成君のお祝いに」
 お祝い……? お兄ちゃんの……? 
叔母さんは、つい尻尾を出してしまったような戸惑いを顔中に広げた。
「もしかして、なにも聞いてないの?」
 有紀叔母さんの困惑顔が全てを語っている。世の中からはみ出した人間に下される制裁。クラスで一人にだけ知らされない、アレだ。
「暫く電話してなかったし、後でお兄ちゃんに訊いてみます。今日は用事があるから家には寄らずに帰ります」
 もう帰ろう。疲れた。この炎天下にも。無駄な祈りにも。さよならと手を振ろうとした時、有紀叔母さんの右手が私の左頬を優しく撫でた。
「いいから。無理して我慢しなくてもいいんだから」
 小さく頷いて視線を落とす。こんな時、何て言って、どう答えていいか分からない。ママみたいに厳しく叱責されたほうが、心を硬くして、それこそ蟻一匹入れない防御を張って、場をしのぐことができるのに。
「あ、お姉ちゃん!」
 傍でやり取りを聞いていた真央ちゃんがステージの方に手を振った。
「三人で来てくれたの? ありがとう!」
「良かったわよ、真紀」
 小走りで寄ってきた真紀ちゃんは、何の抵抗も無くするりと私達の円に加わった。
「どうだった? アキちゃん?」
「……素敵だった。すごく良かった」
 素敵だった、のは本当のこと。けれど本心は別にあって、私は真紀ちゃんを嫌いになるために、ここへ来た。あなたの不幸を心底願っていたから、「どうだった?」なんて、無邪気に問い掛けないで欲しい。もう、これ以上、私は惨めになりたくない。
「アキちゃん、今日は家に帰るね。打ち上げあるから、遅くなるかもだけど」
 一瞬、真紀ちゃんが真顔になった。ほんの零コンマの表情を私は見逃さなかった。何事も無かったかのように振舞っているけれど、私との、ぎくしゃくした関係を気にしていることは確かなようだ。「うん」と言おうとして、かすれ声が出た。家に帰ってくる、と言われてホッとしている自分もいる。散々、怒って取り乱していたのに、本人を目の前にすると、許せる気持ちになるのが不思議だ。
「お母さん、アキちゃんと真央と、お茶でもしてったら?」
 真紀ちゃんは私の水分状況を察知して気を回した。
「叔母さん、ママの所に行ってください。私、一人で帰れるので」
「そう……? じゃぁ」
 切れ味の悪い叔母さんが真央ちゃんに目を向けた時だった。
「行ってよ、アキちゃん」
「え?」
「私この前、瞳伯母さんにアキちゃんとは違う、って言われて、めっちゃ悔しかった。だから今回頑張ったの。これからだって頑張るの。伯母さんに言ってきて。真紀はすごかった、って」
 真紀ちゃんの目は、更に強さを増している。家を出る前の真紀ちゃんとは違う。逞しさに気圧される。
「……分かった」
 暑さから早く解放されたい。泉ヶ岳の家で大の字で背伸びしたい。緊張の連続から脱したいのに、朦朧とする炎天下で、私は真紀ちゃんに負けたくないと思った。私のことは、リセットされたくない。逃げるのは、もうやめる。

 玄関扉を開けたママは、真央ちゃんの後ろに立つ私をじっと見て一言も発しなかった。お兄ちゃんのメッシュの夏用スニーカーの隣に、華奢なサンダルが並んでいる。パパの革靴もある。シューズを脱いだ私の足はじわりと汗ばんでいる。ダイニングテーブルの私の席に座った初めて会う女性は、査定するように数秒私を見て、ニコリともせず背中を向けた。背中の真ん中まである長い髪の毛を掻き上げる腕が、モデルのようにスラリと細身で、ミニスカートから延びる素足を組んで、ママが差し出したティーカップを口に運び、冷たい飲み物のほうが良かった、とでも言いたげに一息ついた。まるで私なんかに一切興味の無い素振りで、一瞬で相性が悪い人だと判断がつく。貴子(たかこ)さん、という名前らしい。彼女に椅子を奪われて呆然と立っていると、パパがリビングから「パパの隣に座りなさい」と手招きした。有紀叔母さんと真央ちゃんを紹介したきり、ママは私を無視し続け、沈黙が場を支配している。私はパパに首を振った。お兄ちゃんが私の事を小声で貴子さんに伝える仕草をすると、貴子さんは、顔に被さり気味の髪の毛越しに、切れ長の目を私に向け、鼻で笑った。無性に腹が立った。
「妹の晶です」
 きっぱりと、あえて大声で名乗りを上げた。しんと静まって、次に私がどう出るのか、みんなで窺っている。こんな空気の家だったのか。誰も本心を言わなくて、腹を探り合う嫌味な家族。この家に抱いていた言い知れない苛立ちの原因が今はっきり見えた気がする。
「今日は、真紀ちゃんがジャズフェスに出て大盛況だった。私なんかより真紀ちゃんはずっとすごくて、バカにされることなんて一つも無い。ママはやっぱり間違ってる。それだけ、それだけ言いに来ただけだから。お邪魔しました」
 私はシューズの踵を踏みつぶして家を出た。扉が閉まり切る前にパパと有紀叔母さんが呼び留めたけど、ママの声は無かった。眉をひそめて、目をまん丸にして、口を半開きにしたママは、何か汚らしい物でも見ているかのように引きつった顔を私に向けていた。罪を犯してしまったような高揚感と、これから先の怖さと、してやったりの達成感が弾けそうなくらい私の胸に膨らんでいる。いっそのこと叫びたい。賑わう土曜の繁華街で。心の隙間に数粒残った理性で自分を落ち着かせる。水分を取り損ねて、喉はいよいよ本格的に粘膜が張り付きそうになっていた。コーヒーショップの自動扉をくぐる。ひんやりとした空気にコーヒー豆を挽いた香ばしい匂い。リュックの肩ひもを握り締めていた指をゆっくりと開いてみた。

 夜。ご飯を食べるのも、照明の灯りを点けるのも億劫で、縁側から月を見ていた。満月にはまだ少し早い、白に近い黄色の光を強く放つ月。
 帰って来た真紀ちゃんは、私の隣に座って「寒いね」と言った。それから、「ごめんなさい」と、ぽつりと呟いて黙った。
「いいよ、もう」
 月光が複雑に絡んだ気持ちを丸ごと消し去ってくれるように思えた。私の鬱積した思いなど、月にしてみればきっと、小さすぎて無いも同然のことだろう。
「俊君が連絡くれたの。『アキちゃん、元気ないよ』って」
 ふと見た真紀ちゃんの顔は、闇に紛れて青く月を跳ね返していた。
「『連絡しにくい』って言ったら、ツイッターなら、アキちゃんは絶対見るからって。演奏を見に来て欲しくて、……絶対来てくれると思って、アキちゃんの好きな曲選んだ」
「うん……」
 私の鼻からは湿った声が出た。暗くて良かった。泣いてしまいそうな顔を見られずに済む。
「……野菜炒め」
「野菜炒め?」
「あの時の野菜炒め、三人で食べるつもりで作ったのに」
 ついに涙が頬を伝った。
「ごめんなさい……。アキちゃんがそう思ってたの、気付かなかった。自分のことばっかりだった、私」
 謝られて心が痛む。私の方がもっと酷いことを思っていた。だけど、今はそのことは言わないでおく。真紀ちゃんが帰ってきてくれたことが、嬉しいから。
 月が涙で揺らめく。私たちが窓を閉めるより先に、月は雲に隠れていった。

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