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(小説)山に眠る鳥たち -9-

 段ボールにぎっしり詰められた書籍。ママが持ってきた大学の教科書だ。私の前に現れたママは、兄と私を医者にするべく熾烈な受験戦争を勝ち抜いた自信を再び漲らせていた。おそらくパパはママを止めたはずだ。私に構うなと。だが、聞く耳なんてママにあるわけない。厄介な人だ。
「ねぇ、リフォームの話、どうなった? そうね、ここに本棚を造り付ければ教科書全部入るんじゃない? それに明るさも足りないからライトをもう少し増やして……」
 真紀ちゃんが細部までリフォーム案を詰めていたのに、ママは独断で捌く。真紀ちゃんはママの強烈な横槍にへそを曲げて、また自室に閉じ籠ってしまった。
「真紀は難しい子なのよ。小さい時からそう。すぐに隠れて」
 ママは平然と真紀ちゃんの悪口を言う。私が家を出た事や、真紀ちゃんを庇った事も、お兄ちゃんの結婚話から私を省いた事も、何事も無かったみたいに平気な顔で話しかけてくる。この人が何を言おうとも、もはや、私は受け付けるつもりはない。少しでも気を許せば、この人は私の全てに乗り出してくる。
「この家のことは私達が考えるから。もう帰って」
「あ、そうそう。ママね、自動車学校のパンフレットも持ってきたの。探すのたいへんだったんだから。ここなら、大学の授業に差し支えないと思うのよ」
 心底うんざりする。私は白の大きな麻バッグにルーズリーフとペンケースと教科書を数冊詰め込んで、自転車の鍵を握った。
「どこ行くの!」
「さぁね」
「勉強なら家でしなさい」
「ウザ」
「何? その言葉遣い!」
 掴まれた手を振り払い、自転車を漕いだ。
「待ちなさい!」
 あの人の怒った声は、後ろから引っ張る鎖みたいだ。振り返らない。絶対。犬じゃあるまいし。私はあの人の知らない、最近出来たカフェへ向かった。

 真紀ちゃんの作る朝ごはんは、ご飯に味噌汁、卵焼き、焼き魚、野菜のお浸し、納豆など、定番の和食メニューだ。これは私たちが小さい頃、泊った翌朝におばあちゃんが作ってくれていた朝食を真似ている。
今朝、真紀ちゃんは久しぶりに機嫌が良かった。
「リフォームだけど、もう一度、三人で相談して決めない? 色々考えてたけど、ここは三人の家だもんね。親とか伯母さん達にあーだこーだ言われるの、嫌なんだ」
 力強く私は頷いた。べたべたと絡みついてくるあの人には、本当に困っている所だ。
「ん、わかった」
 寝起き声の俊君も同調した。
 俊君が学校に出勤した後、真紀ちゃんと二人で食器を洗い、トイレやお風呂の掃除、全部屋に掃除機をかけて、庭の落ち葉を掃いたりした。昼食の後、真紀ちゃんはジャズフェスの三人と会う、と出掛けて行った。
 この前、大学の学生課に復学の意思を伝えに行き、私は各教科の担当教員から課題をたんまり預けられた。午後からは私の勉強に時間を当てよう。来週からは自動車学校にも通うから、相当忙しくなる。

 師走。24日。
 新婦がイルミネーションを浴びて、赤や黄や緑に彩られた。目の中にある多色に変化する光の粒は煌めき、一段と新婦を引き立てている。
 晴れがましい場所に赴くのは久しぶりのこと。私は緊張のあまり、息をすることさえ忘れがちになって、気が付けば両肩が顎近くまでせり上がって来ていた。知っている顔もちらほらある。一人ぼっちじゃなくて良かった。
卒業した高校は進学校だったので、同じテーブルに着いた顔ぶれは、国立大や医歯薬学部に進んだ者が多い。
 新婦である直美は「どうしても幼稚園の教諭になりたい」と言って短大に進学した。中の上くらいの成績だったのに「四年制大学に興味がない」と、ばっさり言い切った直美に、私は勇気を感じたものだった。今になっても直美の潔さはちっとも変わっていないようで、バツイチ子連れの新郎と堂々と披露宴を挙げている。我が道を直美はシンプルに生きている。
 同じテーブルの隣に座った同級生の青山大樹(ひろき)が「子持ちとか、勇気ある」と小声で言ったのが、私の耳に届いて二人で苦笑いした。青山は北海道の大学に一浪して入って今は大学院生らしい。北海道に行ってから火山調査の手伝いで山登りに目覚め、大学のワンゲル部に入部したと話した。高校時代の彼の印象は、眼鏡を掛けた痩せ型、文系のインドア派、だった。
目前にいる青山は、筋肉が服の上からでも分かるほど隆起しているわけではないが、引き締まった感じで姿勢がとても良い。陽に焼けて健康的に見える肌色が魅力的だ。
「石澤は? 確か医学部現役で行ったんじゃなかったっけ?」
 名字で呼ばれるのはいつぶりか。
「あ、うん。そう」
 何年生?と、訊かれそうで内心ハラハラする。
「すげーよなぁ。何科?」
「まだ、決めてない」
 大学の同級の男子とは事務的に会話を交わしたりするけれど、「必要じゃないこと」を探しながら話すのは久しぶりだ。どきどきする。
「大樹……君は……」
「君、いらないから。前みたいに大樹って呼んで良いし」
 ナイフとフォークを休めることなく大樹は言った。大人になった彼を呼び捨てにする事が憚れた。高校時代の私は怖いものが無くて、殆どの友達を呼び捨てにしていた。今では、こんな臆病者になってしまったけれど。
「大樹……は結婚式に出るから帰って来たの? 暫く仙台にいるの?」
「まぁ冬休みだからね。年明けまでは仙台いるかな。そっちは? 忙しいの?」
 すごく忙しい、とは言いたくなかった。忙しいって言ったら、大樹との会話が終わる気がした。
「忙しくもないかな」
「お、じゃあ呑みにでもいく?」
「いいよ」
 呑みのお誘い。社交辞令。私たちは高校生ではなくなった。

 披露宴がお開きになって、直美からお土産の花と小さな箱入りクッキーを受け取る。添えてあるメッセージカードには、「病気になったらよろしくね」とあった。
 同級生達から、「今、何してる?」と、予想通り尋ねられた。訊かれる度に私は「変わりないよ」と平静を装った。同じ大学で同じ学部の同級生が、直美の友達にいなかったことに救われた。私の「変わりない」の後を深追いする人はいなかった。一個人の現況なんて意外に誰も興味が無いのかもしれない。
 ホテルの出口付近で同級生の輪に加わり連絡先を交換する。イルミネーションが街路樹に張り巡らされて、何車線もある道路は大渋滞だった。これから開催される二次会が話題に上がって、私の気持ちは僅かに翳った。二次会には出席しないつもりだ。本音を言えば、お金を節約し、勉強に充てる時間を作りたい。今日のようなおめでたい日くらい、多少羽を伸ばしてもいいのかもしれないが、私は勉強時間を確保するために、学習塾のアルバイトを辞め、生活に掛かる諸々はパパから貰う小遣いとバイトで貯めた貯金を切り崩している身だ。加えて、夜遅くなったら泉ヶ岳まで戻れなくなるのも不参加の理由だ。
「私、今日ちょっとこれから用事があって二次会は遠慮させてもらうね」
 二次会に行かないのは私だけだった。ほろ酔いの女性陣は
「えー! 残念~」
 と声を高く上げた。路上に集う幾つもの人のまとまりから、高い声も低い声も大きな声も笑い声も、路肩で歌う声も、ノイズの様な話し声も、一緒くたに混じり合って、友人達の高い声は当たり前のように存在し、道行く人は平然と通り過ぎる。
 友人達の去っていく背中を見たくないから、腕時計をかざして予定の無い時間を確認したふりをして、じゃぁ、と手を挙げる。
 少し歩いて振り返ると同級生達の後ろ姿が人いきれの中に見えた。不安になると分かっていたのに、振り返ってしまった。彼らは若さ華やぐ今を謳歌してキラキラと輝いている。私は、あの輪の中に戻っていけるのだろうか。

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