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(小説)山に眠る鳥たち ー7ー

 一日に二回しか回収に来ない郵便ポストの前に立つ。投函すれば後戻りはできない。
「今、どうしてる?」って訊かれたら学生って言おう。「恋人は?」って訊かれたらありきたりに募集中って答えよう。大丈夫だ。結婚式くらい参列できる。湿気っぽい葉書を私はポストの口の奥に突っ込んだ。
 薄暗い山道はセミとコオロギが泣き声を重ねていて、辺り一帯の緑の中に、黄と赤と茶のアクセントが現れ始めた。秋が静かに風景の中へと流れ込んできている。
 肌に纏わりつく霧雨が朝から続いて、湿気でピアノのコンディションが悪くなるからと、真紀ちゃんはエアコンを作動させた。湿気を含んだ柱は手に、床は裸足の足裏に吸いつく。時報の鐘も、真紀ちゃんのピアノの音も、雨降り恒例、鈍く籠る。
 雨は時折、風と一緒になってサァーっと、ここに存在する全てを一撫でする。屋根から落ちる雫は、ぴちゃん、ぴちゃんと、リズムを刻む。
真紀ちゃんのイライラは、多分、俊君から漂う女性の影のせいだ。俊君は「ちょっと出掛けて来る」と朝早くに出てしまった。
「車庫だけでも、雪が降る前に直した方がいいよね?」
 俊君のお気に入りの籐椅子に座って真紀ちゃんが言った。リフォーム話が揉めて、崩れた車庫は大地震から半年経った今もそのままになっている。敷地が広いので放置していられるが、山の雪に晒されたら、予想外の事故に繋がりかねない。
「そうだね。でもまた、うちのママが何か言ってくるかもしれないけど……」
「あぁ―……かもね」
「……うん」
 自分たちに直接かかわる問題なのに、三人で決められない。結局はママの支配下だ。そもそもここはママの実家だから仕方ないけれど。それにしても、私は生活していくことを甘く見ていた。お金を稼ぐ手段を確立していないし、世の中のことも知らなさすぎた。このままママに高圧的に迫られ、真紀ちゃんと俊君に依存し続けて行けば、私の肩身は確実に狭くなっていくだろう。お兄ちゃんの婚約者の貴子さんに軽視されたりして隅でいじけて生きることを望まないのなら、何とか自立するしかない。
「ねぇ、俊君の車の音しない?」
 もやもやと考えを巡らす私の脇で、真紀ちゃんはずっと遠くの車の音をキャッチしたようだ。私の耳にはまだ届かない。ましてや、この雨降り。音楽を学んできているだけあって、真紀ちゃんの耳はさすがだ。間もなく家の前に俊君の車が到着して、私たちはドキリとした。
(みちる! 来た!)
 真紀ちゃんと私はアイコンタクトを交わした。互いの目で、やっぱり同じ直感を抱いてたことを確認し合った。助手席から降りた彼女は175センチの俊君の肩ぐらいの身長で、艶のあるグロスを唇に乗せて、体の線は丸く、セクシーさが滲み出ている大人っぽい女性だった。彼女に目を奪われている間に、傍に居た真紀ちゃんの姿は消えていた。
 俊君は彼女を家に招き入れた。絵理奈さんとは全く違うタイプの女性だ。私に会釈をして、そのまま俊君と彼女は俊君の部屋に入った。真紀ちゃんは自分の部屋に閉じ籠ってしまい、私は戸惑う。お茶を淹れるべきか、俊君に声を掛けるべきか、真紀ちゃんに相談しに行くべきか。家の真ん中で私は右往左往する。俊君の部屋から話声が聞こえてきた。内容は雨音と混じり合って、よく聞き取れない。かれこれ一時間くらい。二人を待つ間に私は気疲れしてしまって、居間でぐったりしていると、俊君と彼女は階段下りてきた。
「あれ? 真紀ちゃんは?」
 俊君は部屋を見渡した。
「部屋にいるんじゃないかな、呼ぶ?」
「いいえ、大丈夫です。もう帰るので」
 俊君より先に彼女が手を振った。艶のある唇から、少し太い落ち着いた声。
「絵理奈に手を合わせに来ただけなの。ちょっと気になることがあったから、俊とも話をしたかったし」
「絵理奈さん?」
 俊君に目を遣って説明を求めた。
「あ、彼女、新藤みちるさん。俺と絵理奈の大学の先輩」
「ども」
 初対面の人に「ども」って挨拶する人、あんまり好きになれない。私の事を鼻で笑ったお兄ちゃんのあいつよりかは随分マシだけど。部屋を囲う障子戸の一枚が開いて、真紀ちゃんが現れた。完璧に怒っている。
「絵理奈さんの気になることって、何ですか」
 挨拶抜きで、声を張って真紀ちゃんは訊いた。固まった空気に、雨の滴る音はやけに響く。

 みちるさんを送っていった俊君が戻って来たのは夜九時を過ぎてからだった。
「真紀ちゃん、あんな態度ってないよね?」
 玄関で靴を脱ぐと、俊君は真っ先に真紀ちゃんに向かった。日頃、あまり怒らない俊君が真紀ちゃんに迫る。俊君はみちるさんが好きなのだと、私たちにはっきり伝わる。
「あんなに気を遣っちゃってさ。俊君てば、嬉しそうな顔して」
「そんな顔してない。みちるさんは霊感が強くて、絵理奈がマンションの跡地に居たのを教えてくれてたんだ」
「霊感……って、何言ってんの? なによ、それ……。何なの!」
 真紀ちゃんが語気を荒げた。
「絵理奈さんの幽霊がいるってこと?」
 私が訊いても俊君は頷かなかった。俊君の魂がここには無い感じがする。
「そんな事ある訳ないでしょ! 騙されてる。あの人、俊君が自分の事を好きなのを知ってて調子乗ってるだけ」
 真紀ちゃんに言い返すと思っていた俊君の眼鏡の下から涙が流れて、私は慌てた。私が触ることすらできずにいた俊君の核心部分を、真紀ちゃんは引きずり出してしまった。俊君は指で涙を拭き取った。真紀ちゃんの顔はまだ険しいままだ。
「いいんだ。騙されても、嘘でも、俺は絵理奈にそれでも、どうやったって会いたいんだ。会えたら、ちゃんと向き合って、顔見て、ご飯食べて、会話して、ただ傍に居られれば幽霊だって、それでいい」
「じゃぁもう、あの人に会うのやめて。絵理奈さんがかわいそう!」
 私の心配をよそに、真紀ちゃんは攻めの姿勢を崩さない。
「…………」
「何とか言って!」
「……やめないよ。絵理奈のことは今も愛してる。掛け替えのない大事な妻だ。けど」
 俊君は唇を噛んで、顔を歪める。
「絵理奈にしてあげられることは、俺にはもう何もない」
 俊君は力尽きたように椅子に腰を下ろして背中を丸めた。それから、ゆっくり口を開き、
「……俺、みちるさんが好きだよ。大事な人を失ったら、もう他の人を好きになっちゃいけない? 一生、写真の絵理奈だけ愛して生きてかなきゃダメかな」
 俊君の声色には、苦悩や、迷いや、戸惑いが含まれている。もう解放してあげたい、と私は思った。絵理奈さんが亡くなってから、俊君は親戚や知人友人、会う人全てに同情され続けている。絵理奈さんの両親は俊君が離れてしまうのを心配して、同居を申し出たくらいだ。俊君の周りが一丸となって「絵理奈を忘れるな」と圧をかけてしまっている。まるで、縛り付けるかのように。そんなことをしなくとも絵理奈さんを忘れられるはずはないのに。
「幽霊の…… 絵理奈さんとは会えたの?」
 私がそう訊くと
「みちるさんとマンションの跡地に行ってみたけど……」
 俊君は力なく首を振った。
 真紀ちゃんは痺れを切らしたように拳で自分の太腿を一叩きすると、流し台の前に立った。薬缶に水を入れて、火をつけた。俊君と私は真紀ちゃんの動きをずっと目で追った。アールグレイの茶葉をティーポットにスプーンで二杯、沸いた薬缶のお湯を一気に茶葉めがけて注いだ。一斉に香りが広がる。
「私は幽霊なんか信じない。けど、行こう。もう一度。俊君と絵理奈さんのマンションのあったとこ」
 真紀ちゃんは保温ポットを紅茶で満タンにして蓋を締めながら言った。外からは雨水が垂れる音がする。柱時計は間もなく十時の鐘を叩こうと振り子を揺らしている。
「分かった。アキちゃんも来てくれる?」
 俊君が即座に返事をして立ち上がったので、びっくりする。潤みが僅かに残っている俊君の目は、離れていた魂が戻って生気に満ちているよう。
「う、うん……二人が行くなら」
 心が引き攣った。怖い話はかなり苦手だ。なにも、こんな雨降りの夜に行かなくてもいい。晴れた昼間に行けばいい。そう目で訴えても、既に俊君と真紀ちゃんは出掛ける支度に取り掛かっていた。
「俺の車で行こう。先乗ってるから」
 俊君は外に出てエンジンをかけた。さっきまで、あんなに弱々しかったのに。真紀ちゃんはレインコートを羽織って、紅茶ポットと紙コップをバスケットに入れて俊君に続いた。雨合羽と家の鍵だけ握り締めて、私も外に飛び出した。
「アキちゃん、電気消してきて。早く鍵掛けて乗って!」
 真紀ちゃんが車の窓から急かすので、スイッチの場所が分からなくなるし、玄関の鍵が掛からなくなる。ぐりぐりと鍵を回して、取りあえず開かなくなったのを確認してから俊君の車の後ろの席に転がり込んだ。
 霧雨は次第にしっかりとした粒に変わって、俊君と真紀ちゃんの間から見えるフロントガラスには大きな半円が描かれている。カーナビのモニターによると、深夜零時まで間もなく。
 車は仙台の市街地へ入っていく。大通りを抜けて、広瀬川を越えて進む。
「この辺りは、揺れの被害が大きくてさ」
 ヘッドライトが当たるのは、壊れて人が住めなくなった何件かの家と、工事の重機や立ち入り禁止のロープ、大きなトラックと、更地だ。
俊君が車を止めたのは、既に建物が撤去された二人が共に暮らした場所。
「俺と絵理奈のマンションがあったとこ」
 絵理奈さんは学校から病院に行って亡くなったから、一度もここへ戻っていない。暗闇の中、エンジンを切らずライトも全開にしたまま、三人で車を降りた。私は怖さのあまり、真紀ちゃんの腕を掴んだ。急に腕を掴まれて驚いて振り返った真紀ちゃんの顔も固まっていた。
「アキちゃん、怖いの?」
 力強く頷く。
「もう。しょうがないな」
 真紀ちゃんは半分怒りながらだけど、腕を貸してくれた。三人であちこち見渡す。通り過ぎる車も人気も無い。聞こえるのは、雨が体に当たる音と、車のエンジンが待機する音だけ。
「絵理奈――」
 濡れ顔の俊君が呼ぶ。雨粒なのか、泣いているのか。
 呼ばなきゃ。俊君の声が私を駆り立てた。絵理奈さんが傍に居るなら、何度でも、何度でも、呼ぶ。俊君にもう一度会わせてあげたい。体中の血管が脈打って突き動かされる。
「絵理奈さ――ん!」
 真紀ちゃんも声を合わせた。何度も、何度も、三人で力の限り。びしょ濡れになって、喉が痛くなっても呼び続ける。
髪が顔に張り付いて、とうとう前が見えなくなった頃、俊君は崩れ落ちて悲鳴に近い叫びをあげて号泣した。

 俊君は絵理奈さんを探しに行ったあの夜から、高熱を出して寝込んでいる。女二人の力で、やっと連れて行った医院で点滴を打って、薬を貰った。
俊君の部屋から出てきた真紀ちゃんは、一人用の土鍋からお粥を捨てた。俊君の食欲は戻らない。真紀ちゃんは一つ溜息を洩らして土鍋を洗った。
「……私、俊君に酷い事したのかな」
 真紀ちゃんは独り言のような小さい声で、私に訊いた。「いまさら何を言う」と、反射的に思ったけれど、返事に困る。私は俊君の心の中には触れないようにしてきたし、三人で暮らす生活を壊すまい、乱すまいと心掛けてきた。だから、真紀ちゃんの取った態度や行動には賛同できない。「そんなことないよ」と気を使うのも違う気がする。
「もしさ……」
「ん?」
「あの時もし、絵理奈さんに本当に会えたら、俊君と絵理奈さんに、お茶を飲む時間をあげたいなって思ったの」
「だから紅茶だったの?」
 真紀ちゃんは頷いた。真紀ちゃんらしいな、って思う。俊君と絵理奈さんが会う事ができたのなら、笑顔で紅茶を飲んで、ハッピーエンドに繋がると思っているあたりが。私はそう思えない。だって、もう俊君にはみちるさんがいて、絵理奈さんは絶対に戻って来られないのだ。俊君はあの夜、絵理奈さんに会うことを強く望んでいた。だから私は一緒に行った。例え二人が遭遇できたとしても、円満な終焉ではないだろうと予想しながらも。真紀ちゃんは「会えなかったことが幸せだった」とまでは考えないだろう。理解ある親に大事に育てられたから。自分の考えが善だと疑わないから。最後は必ず笑顔になれると信じているから。
「亡き王女のためのパヴァーヌ」
 真紀ちゃんが弾き始めた。耳に障る。いつも癒されている音色に、今日は心がざわつく。これは、絵理奈さんに向けて弾いているのではない気がする。俊君のためでもない。「俊君を見ていて辛い自分」を慰めているだけだ。真紀ちゃんは自分の世界だけで生きている。
 自室に置いてあるスケッチブックを開く。私の絵も真紀ちゃんのピアノと同じだ。自分を慰めるために描き溜めただけの、薄っぺらい、それだけのもの。そろそろ自分の殻から出なければいけない。ここで止まっていたら「本当のこと」が何も分からない。
 力づくで絵を破り取ろうとして、スケッチブックの金属のワイヤーが歪んだ。構わず絵を破り捨てて、次のページもその次も、と繰り返したらとうとうワイヤーは伸び切って、使い物にならなくなった。それでもいい。気づいてしまった以上、小さい世界に体を縮まらせて生きることはもうできない。新鮮な空気をたっぷり吸って、両手両足を大きく伸ばせる所に行きたい。スケッチ全てを引き裂いて、硬い表紙も外したら爽快だった。
 真紀ちゃんのピアノはまだ続いている。たった今、私は真紀ちゃんのピアノを越えた。

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