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人生の目標を掲げ、感情を切り離すということ

実は最近いろいろあった。いろいろあり過ぎて、この記事に全て書き切れないのだが、はっきり今言える事は、確実にちゃんと前に向かって進んでるということだ。

まず、7月初旬から仕事を始めた。まだ無給の実習生といった立場であるが、やりがいをすでに見い出している。仕事内容も上司も同僚も全てが、今まで自分が求めてたものという事と実感している。

そしてなによりも、子供達から尊敬の眼差しで見られるようになった。たとえお給料はまだ貰っていないにも関わらず、私が勤務してる職場が歴史ある知名度の高い組織という事からなのか、彼らの私に対する態度が優しくなり、興味深く私の話を聞いてくれるようになった。

さらに、次男は夫から料理を学び、私が仕事の時はいつも夕飯を作ってくれるようにもなった。そう、次男のおかげか否かわからないが、夫も少しずつ協力的になったのだ。

夫がいろいろな面で努力してるのは気づいてる。まだ断酒はしてないが、量を減らす努力はしているようだ。息子たちに積極的に料理を教え、一緒に夕飯の支度をし、夕飯後の片付けもするようになった。

この間、私が娘の友人たちを誘って主催した娘の誕生会も手伝ってくれ、参加した娘のお友達の親御さん達とも交流していた。コミュ症なりに努力はしているので、私はそれを認め感謝の気もちを彼に表言した。

だからと言って、私の気持ちが変わったわけではない。彼の飲酒癖と性格は簡単に変わるものではないからだ。だから、私は自分の目標、つまり彼から自立し自由を得るゴールへ向かい前に進み続けている。

ただ、彼の努力を認め、彼に感謝の気持ちを表言する事により、彼が少しでも変われるのなら、それはそれで子供達のためになるのでそうしたいと思ってる。一方で、私の中では、彼を夫として愛する事は、もはやあり得ないと認識している。これから先、彼は子供達の父親であり続ける事には変わりないのだから、彼らのためになる事ならなんでもしたい。だから、彼を一人に人間として認め、彼を友人として慈愛を与えても良いと思い始めているのだ。

こう思えるようになったきっかけは、脱共依存に関する本("Codependent No More" ---Melody Beattle著)だ。相手の問題と自分自身を切り離し、感情的に距離を置き、同時に自分自身のニーズを最優先に考えるべきと書かれてあった。

結局自分を救えるのは自分しかいない。今まで「彼を愛しているから」という理由で、自分がやりたい事を諦め、彼の言動が不条理と感じながらもそれを否定しながら我慢してきた。でも、もう我慢はしない。自分の感情を認め、自分のニーズを優先しなければ、幸せになれない事を学んだからだ。

実は、同時進行で読み始め、ほぼ読み終わるもう一冊の本がある。それは、脱アダルトチルドレン(毒親育ち)がテーマである本("Adult Survivors of Emotionally Abusive Parents" ---Sherrie Campbell, PhD 著)だ。どのように毒親と関係を断ち、どのように自分軸に人生を立て直していくのかという事が書かれていた。

そこで、私はこの2冊に共通するものに気づいた。それは一言でいうと、自分を最優先することである。つまり、自分自身の感情と向き合い、それを認め、その感情を優先し、毒元である相手(毒親や依存症を持つ家族)と距離を作り、境界線をしっかり保つと言う事だった。

毒親も依存症をもつパートナーも、共依存に陥ってる相手に対し、罪悪感を植えつける言動をする。それは、最近の精神衛生学の世界で使われるようになったガスライティングと呼ばれるものなのだが、それによって共依存当事者は、自分自身を責め、自身の主張を取り下げてしまうのだ。

だから、毒元である相手(毒親や依存症を持つ家族)と距離を置くということは重要だ。つまり、相手の罪悪感を植えつける言動に気づき、それから自分自身を感情的に切り離すということだ。

例えば、少し前にこんな会話を夫と交わした。夫がシャワーに頻繁に入らず、アルコールのせいもあって、体臭が酷いということを彼に伝えた。そしたら、プライドが高く傷つきやすい夫は、それは侮辱的だという反応をしてきた。そこで、私は「傷つくのも侮辱だと感じるのもあなたの問題で、私はただ事実を述べてるだけだ。」とはっきり言った。

かつての私ならそんな彼の言動に動揺し、相手の気持ちを傷つけたという罪悪感に苛まれ、そこで謝罪していたと思う。そして、自分自身の主張を否定し何も言えなくなるという末路に至った。しかし、私は自分にこう言い聞かせた。彼の感情の問題は彼の問題であり私の問題ではない、彼が傷つくのは私のせいではない、と。

また、最近気持ちが動揺する出来事があった。義母が私を恐怖に陥れる言動をして来たのだ。自身が置かれてる緊急事態(彼女の夫が救急に搬送された事)をだしに、命令口調で彼女のところに来るようにとメッセージが留守電に残っていたのだ。

私はこのメッセージを無視した。結果的に夫が彼女のところに駆けつけたので、私が行く必要はないからだ。おそらく私は冷酷な人間だと思われただろう。でも、私は彼女の実の娘でもない。私には彼女のニーズを満たす義務はない。彼女を拒否する権利も、私にはあるのだ。しかも、命令口調で言うという態度に、彼女の毒を再び感じ取ったので従うべきではないと悟った。

4月に私のところへ乗り込んで来た時もそうだった。自分自身の不幸を私に叩き付け、同情しない私を責めて来た。それにも関わらず、最後の方で私に共感するような言動をし、私の感情を操ろうとしてきたのだ。毒親は、そうやって子に罪悪感を植え付け、歯向かえば子を懲らしめるという、飴と鞭をうまく使わけ、自分の利益を得るために子を操作する。モラハラパートナーもそうだ。モラハラをする人間は皆、同じ行動をするのだ。

前述した脱共依存に関する本には、自分自身の反射的な感情反応に気づくように強く促している。つまり、感情をかき乱す言動を相手がして来たら、すぐに反応せずに、ハッと気づくということだ。相手の言動に対する自分の感情に気づきそれを認め、どう反応すべきか考える。今までのパターンにも気づき、次に備えるということも大事なのだそう。

この思考の切り替えトレーニングにより、私はずいぶん楽になった。誰のためではなく自分のために、自分の感情に正直になれるようになった。

相手に対して恐怖や不安を抱いたり、また怒りや悲しみや不満を抱く事に罪悪感を感じる必要はないのだ。その代わり、今自分はその感情を抱いている理由を確認し、どうのように相手に反応すべきかを考える。

この切り替えトレーニングを意識的にやっていると、息子達が思春期なりに屁理屈を言ったり、口答えをし親と議論をしようとした時にも役立つ。子供の悪態に対して、簡単にブチ切れるということも無くなった。それは、どんなに疲れてる時でもだ。

私が穏やかであると、子供達は私に耳を傾けてくれる。おそらく夫もそうなっているのかもしれない。いや、そう信じたい。だから怒りをあらわにすることを辞めた。ただ、淡々と自分自身のニーズとゴールに向かって前に進むのみだ。

息子がある日、こんなことを言って来た。「この夏休み中、お母さんはリラックスして親切だね。」と。

だから私はこう答えた。「きっとあなたもリラックスして親切だから、お母さんもそうなったんじゃないかな。」

彼は、嬉しそうにこう答えた。「それって、いいね。」

子供はちゃんと親を見ている。親が幸せなら、子も幸せになれるのだ。

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