見出し画像

すぐそこにあるパラレルワールド。

 直勘は0,7秒で思考に消される。と、何かで呼んだことがあります。また、直勘は常に降り注いでいて、受け取れるかどうか、受け取ったら信じられるかどうか、信じたらその通りに行動できるかどうか、で未来が変わるとも言われてます。
 直勘が大事なのも確かですが、しかし、直勘が降ってきていると言われても、そうだよな! と膝を打つ人は少ないんじゃないかと思います。むしろ直勘に従うよりは、よーく考えて行動した方が安心だと思う人の方が多いのではないでしょうか。
 でも、厄介なのはこの「思考」なのてす。思考は、「記憶」、「経験」、「知識」など、概ね過去の体験に基づくからです。冒頭の例によれば、直勘の邪魔をするのが、これらの体験、即ちミスチョイスや言動の過多過少による失敗、親の小言やコンプレックスからくる自己否定など、比較的ネガティブな要素です。

 ノー天気という言葉がありますが、ノー天気な人はまさしく直勘に従っていると言えるでしょう。こういう人には、天真爛漫とか、くよくよしないといった面もありますよね。そしてなんだか、ツイてるというイメージがあります。ノー天気という言葉は、思考する人が直勘に委ねる人を指して使う表現であり、どちらが楽に生きているかは明白でしょう。

 ここでタイトルに戻りますと、パラレルワールドは存在するのか? あるとすれば何処にあるのか? という問いがまず浮かびますね。では一体パラレルワールドとは何なのか? この世界という時空が無数に存在するのか? もちろん「科学的」には何も証明されてはいません。そこで、物質世界から精神世界へ目を転じてみましょう。
 物理学で物質の最少単位である原子は、原子核の周りを電子がぐるぐる回っているとされていますね。この電子には軌道がいくつかあって、電子にさらにエネルギーが加わると今までの軌道からピョンと跳ねて別の軌道に移るそうです。これを励起と呼びますが、ここに大きなヒントがあると私は思うんです。電子は量子の一つですから、物質を精神の方向に意識づけますね。

 さあ、本丸に入っていきましょう。私たちは、何か情報を受け取ったときに、必ず何らかの反応をしますよね。受け取った情報がどんな類いのものかは問題ではなく、受け取ったときの反応が問題なのです。理性的に反応するか感情的に反応するか、ポジティブに反応するかネガティブに反応するか、自分を優先するか相手を優先するかなど反応の分かれ道は様々です。
 この「分かれ道」こそ、パラレルワールドへの分岐点ではないでしょうか。
 私たちはこの時空を他者との関係性の中で生きていますから、例えば職場においては、作業が捗るか捗らないかや、プランニングが順調にいくか、人や物の手配がスムーズかどうか、情報の風通しが良いかなど、人間関係に依存するところが大きいわけですよね。
 そういった仕事上でのことばかりではなく、家庭や交遊、恋愛に至るまで、環境を左右するのは、実は私たち自身の発信やリアクションなので、そこをちょっと変えるだけで、今までとは違う環境に身を置くことができる、つまりパラレルワールドはすぐそこにあるのです。

 ここで直勘と思考にもどりましょう。さすがに常に直勘に委ねるのは難しいですから、思考のあり方について考えてみました。信仰を持っている方は、その教義に基づくのが良いと思いますが、そして、無信仰の方々の思考の道標としては、W.D.C在住の国際政治アナリスト伊藤貫氏が常々仰っているギリシャ哲学、特にプラトンのイデア論の基礎とも言うべき「真」「善」「美」の3要素です。
 「真」は、真実、真心、真言(まこと)などを意味します。嘘偽りのない、内発的な、見返りを求めない言動と私は解釈しました。
 「善」は、良きこと、損得や好き嫌いではなく自分の利害を越えて調和に資することだと思います。
 「美」は、美しきこと。見目麗しく心を奪われるような所作、振る舞い、色合いに現れると私は感じています。
 
 パラレルワールドは無数にあると言われてます。私たちは、いつでも「今」を境に別のワールドに移行できるのです。それは、私たちの意志や意識の発露としての発信やリアクションの結果として起こるのだと言えるでしょう。
 もしもそれぞれの世界に仏教でいう六道のような住み分け若しくは段階があるとするならば、意志と意識即ち心の有り様が決める次のワールドは、今よりも次元の高いステージでありたいものですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?