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テンソウシキ

仕事の関係で、取り壊される直前の家を見に行った。二階建て、築40年だというその家は、洋室のランプや仏間の欄間・襖絵など洒落ていて、古いけれど細部へのこだわりを感じる良いお宅だった。

母屋に隣接して「離れ」がある。母屋と離れの間隔は50cmくらいで、わざわざ離すような距離ではないが、両者を繋ぐ廊下もない。
離れは母屋よりもボロボロで小さい、縦長の八畳一間、和室だけの建物だ。母屋は青い瓦葺きだが、離れは赤いトタン葺き。乗ると沈む畳にはカビが生えていた。入り口の向かい側奥の壁は、左に床の間、右に違い棚、部屋の側面には立派な桐箪笥が2つ。母屋よりも立派な床の間と違い棚だったので「客間か茶室ですか?」と私が尋ねると、60過ぎの奥方は「テンソウシキです」と答えた。

50年前に建てられたこの「テンソウシキ」は、敷地に建てるだけで家が栄えると言われ、建物の向きや大きさにも決まりがあり、わざわざ母屋から離すことが重要だそうだ。祖母が危篤の時には家族で祖母をこの建物に運んで看取り、両親は体調の悪い時この部屋に寝に行くなど、特別な場所だったらしい。先日亡くなった奥方のお母上は、自分が死ぬまでこの離れを壊すなと言いつけており、ここ数年は物置として使用していたのだそうだ。
私は家相風水に疎いので、調べたら簡単に見つかるだろうと思いながらふむふむと話を聞いていた。ところが、帰って調べても「テンソウシキ」という言葉は見つからない。漢字で書くならば「天相敷」か、とにかく家相に関する言葉にそんなものはなかった。

思うに、「離れ座敷」あるいは「単座敷」の聞き間違いではなかったか。とは言え、離れ座敷と家運に関わる話も聞いたことがない。色々仮説は立てたものの、冗長なので割愛する。

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数年前に書いた文章の転載だが、「テンソウシキ」という名前に未だ納得のいく答えがないので、「離れ」や別屋についての一般的な話をする。

中世の説教節『さんせう太夫』に「今年の年の取り所、柴の庵で年を取る、我らが国の習ひには、忌みや忌まるる者をこそ、別屋に置くとは聞いてあれ、忌みも忌まれもせぬものを、これは丹後の習ひかや、寒いかよつし王丸、ひもじなるよつし王丸」という安寿のセリフがある。
この通り、古代から「忌み(いみ)」の状態にある者は別屋に置かれる風習があった。亡くなった人は「喪屋(もや)」に安置され、出産は「産屋(うぶや)」で行った。
喪屋・産屋は臨時に建てられる簡易的な建物である。出産までに産屋の建築が間に合わず、産屋の屋根が葺けなかったことから「ウガヤフキアエズ」と名付けられた神もいる。近世になると死人は仏間に、出産は納戸などで、と一つ屋根の下で完結するようになるが、常の部屋とそれとを別にする意識は明確に残っていた。

この「忌み」習俗の本来を考えれば、祭祀氏族の「忌部(いんべ)」などのように、「忌み」は「斎戒」の意を含み、「穢れから離れた状態に身を保つ」という意味があった。つまり、死人を別屋に置くことは生きている人間にとっての「忌み」であり、出産時に別屋に入ることは妊婦にとっての「忌み」だったのだろう。
出産は「忌み」を必要とする、聖別されるべき行為と解される。神聖な行為のために臨時の建物を建てる例は、天皇の即位儀礼である大嘗祭の「悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)」などがある。
大嘗宮の建造は清浄を重視する信仰が背景にあるが、産屋の場合には物理的な意味での清浄を得る目的もあったかもしれない。

ところが、喪屋・産屋はともに同じ別屋を建てる「忌み」であるため主客が逆転し、「産の穢れ」という思想が生まれたと考えられる。あるいは血や女性を不浄とする仏教の影響によって、こうした逆転が起きたのかもしれない。
また、平安中期までには「忌み」の意識も変化し、忌中・忌み嫌う・忌避などのようにネガティブな言葉として捉えられるようになる。これは「忌部」がその名の表記を「斎部」と改めた9世紀頃までには起きていただろう。

「テンソウシキ」をこうした別屋文化の延長と考えたとき、喪屋としての役割は指摘することができるが、病気を治す、建てると家が栄えるというのは分からない。
「建てないと家が衰亡する」が逆説的に伝わったとも考えられるが、茶室然とした床の間や違い棚などは、確かに家の格を上げる建物の感を漂わせるものだった。

国内を旅行するときや民俗調査報告書を読む時など、折に触れて似た事例を探しているが、未だこの類例となる習俗を知らない。

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