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チャットGPT日記13

 前回のおさらい

 前回から、南北朝時代について、チャットGPTに書かせることにした。
 ミュシャの時とは違い、南北朝時代については、主にこんなことがあったという事実を適当に並べ替える形のでたらめを出力をした。
 また、ここに修正を加える情報を入力したところ、ミュシャについての記事と同様に、適当なデタラメを混ぜるようになった。


前回最終的に出力させた南北朝時代についての文章。

南北朝時代は、日本の歴史上、1336年に始まりました。この時、後醍醐天皇の皇子・光明天皇を擁する南朝と、後醍醐天皇の孫・光厳天皇を擁する北朝が、権力をめぐって争い始めました。

その後、南北朝時代には、数多くの戦いが繰り広げられました。中でも、1350年に始まった観応の擾乱は、足利勢力内部の権力闘争によって発生した戦乱でした。当時の足利尊氏の弟である足利直義と、その子である足利義詮が、尊氏と権力をめぐって対立し、戦いが起こりました。

観応の擾乱は、南朝と北朝の対立とは別の動きとして、武士階級内部の力関係が変化したことが背景にあります。観応の擾乱は、長期化し、1368年にようやく終息しました、

南北朝時代は、南朝と北朝の対立が続いたため、社会や経済にも様々な影響を与えました。また、この時代には、武士文化が発展し、和歌や茶道、華道などの芸術や文化も栄えました。南北朝時代は、室町幕府の成立によって終わりを迎え、日本史の新たな時代が始まることとなりました。

実際の南北朝時代

南北朝時代は、日本の歴史区分の一。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる。
建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(持明院統)を擁立したことで北朝が起こり、それに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(大覚寺統)が吉野行宮に遷って南朝を起こす。
元弘の乱1331年から1333年に起こった元弘の乱により、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による治世である建武の新政を経て、1335年の中先代の乱がきっかけで足利尊氏と後醍醐天皇が対立し、天皇による単独政権である建武政権が崩壊する。
その後、1336年の建武の乱が起こり、1338年には、足利尊氏により、室町幕府が樹立される。
1350年には足利勢力による内紛である観応の擾乱が起こる。
最終的に、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した元中9年/明徳3年閏10月5日(1392年11月19日)に終わる。

 前回の記事のまとめ。

 実際の歴史とチャットGPTの記事と照らし合わせると、主に南北朝の人間関係と、観応の擾乱や室町幕府の成立など、実際の出来事などに嘘を言っているのが分かる。
 チャットGPTのデタラメの大きなものを訂正する。
 1.天皇同士の関係。
 まず、チャットGPTは後醍醐天皇の血筋が南朝と北朝に分裂したと説明しているが、史実では、後醍醐天皇、光厳天皇、光明天皇は実在していたが、それらの関係性はことなる。
 光明天皇は光厳天皇の弟であり、後醍醐天皇とは親戚のおじさん的な血縁関係になる。
 そして、北朝は光明天皇が天皇に即位しており、南朝は後醍醐天皇が即位した。

 2.観応の擾乱について。
 観応の擾乱については、期間も実際の出来事も大分、ぐちゃぐちゃになっている。
 まず、事件のあらましとして、単に足利尊氏と足利直義が戦ったわけではなく、尊氏の実弟である足利直義と尊氏の腹心の部下である高師直が方針の行き違いで対立し、尊氏は師直方に着いた。
 その後、師直方は負けて色々あった後に暗殺されるが、尊氏は生き残り直義からなんやかんやで政権を奪い返す。そして、直義は死ぬ。
 このできごとが起きた期間は、1350年から1352年までの三年間になる。

 3.室町幕府について。
 チャットGPTVは南北朝時代の終わりとともに室町幕府が成立したとしているが、史実では南北朝時代の初期に既に成立しており、広義の意味では、南北朝時代も室町時代の一部である。
 実際の歴史的には、そっちの方が明らかに良かったと思う。

 今回の記事。

チャットGPTに出力させた文章

南北朝時代について

南北朝時代は、日本の中世時代にあたり、南朝と北朝による争いが起こった時期です。1336年に、足利尊氏が光明天皇を擁して京都に入城し、室町幕府を開きました。これに対して南朝では、後醍醐天皇の系統を継ぐ皇族が天皇に即位し、南朝を開いていました。南北朝時代は、1336年から1392年までの56年間続き、南北朝による争いや戦乱が続きました。この時期には、室町幕府による支配も南北朝による支配も不安定であり、国内の混乱が続いたとされています。1392年に、北朝の後小松天皇が南朝の後亀山天皇を譲位させ、南北朝の合一が実現しました。この時期には、武家文化や茶道、能楽などの文化が栄えました。

南北朝時代の発端・両統迭率

鎌倉時代には、両統迭立という特殊な状況がありました。後嵯峨天皇は、第三皇子である後深草天皇を即位させた後、第四皇子である亀山天皇も即位させました。これにより、天皇家は2つの系統に分かれました。後深草天皇の系統は持明院統として続き、亀山天皇の系統は大覚寺統として続きました。

後醍醐天皇は大覚寺統の出身で、足利尊氏とともに鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政を開始しました。しかし、1335年に中先代の乱が発生し、足利尊氏と後醍醐天皇の対立が深まりました。この事件がきっかけで、後醍醐天皇は南朝を開き、足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁して北朝を開いたため、南北朝時代が始まりました。

両統迭立という状況は、天皇家の政治的な権力闘争に発展することがあり、南北朝時代に至るまで続きました。

元弘の乱は、鎌倉時代末期の1331年から1333年にかけて起こった倒幕運動であり、後醍醐天皇が中心となって行われました。この乱は、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵し、鎌倉幕府が滅亡する事件となります。

当初、後醍醐天皇による倒幕運動は「正中の変」と呼ばれるクーデターに続くものでしたが、途中で失敗してしまいました。しかし、足利尊氏が鎌倉幕府を裏切り、後醍醐天皇に寝返ったことで、乱は成功することとなりました。

この乱により、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は新政府である「建武の新政」を開始しました。しかし、後醍醐天皇と足利尊氏の対立が深まり、南北朝時代の戦乱が始まることになります。

鎌倉幕府滅亡・元弘の乱

元弘の乱は、1331年から1333年にかけて、鎌倉幕府に対して後醍醐天皇が挙兵し、日本史上初めての天皇直轄政治「建武の新政」を開始した事件です。

当時の幕府は、政治の混乱や天候不順による飢饉などにより、国内外からの不安定な状況に直面しており、内外からの反発も高まっていました。そうした中、後醍醐天皇は朝廷の復興を目指し、倒幕運動を起こしました。

幕府軍は最初は後醍醐天皇軍を圧倒し、一時は天皇も落ち延びましたが、その後、幕府内部で足利尊氏が後醍醐天皇側につき、幕府軍を裏切ったことで勝利し、鎌倉幕府は滅亡しました。

その後、後醍醐天皇は「建武の新政」を開始し、幕府の権力を奪取して、天皇直轄政治を行いました。しかし、新政は財政難や武家の不満などから不安定で、1336年には「中先代の乱」が発生し、後醍醐天皇と足利尊氏が対立することとなります。

建武の新政

建武の新政は、1334年に後醍醐天皇が行った新しい政治体制です。これは、鎌倉幕府を滅ぼした後、朝廷の権威を回復するために導入されました。

この新政は、朝廷による中央集権的な政治を目指していました。具体的には、土地制度の改革や、各地の守護に対する朝廷の直接支配などが行われました。また、官職の改革や新たな法令の制定、年号の改元なども行われました。

しかし、この新政は、特に武士たちに不評であり、短期間で終わりました。後醍醐天皇は、武士たちが起こした反乱によって失脚し、足利尊氏が政権を握ることとなりました。

中先代の乱

中先代の乱は、北条時行と信濃の諏訪頼重が起こした戦乱である。

北条方は、後に北朝となる持明院統の光厳上皇に味方しており、鎌倉幕府再興を目指して戦いを挑んだ。

名越氏や三浦氏などが北条方に加勢し、足利尊氏によって二十日で鎮圧された。

この乱においては、後醍醐天皇の皇子である護良親王が足利直義によって殺害されるなど多くの犠牲が出た。

建武の乱

> 建武の乱は、1333年に起こった元弘の乱の勝者である足利尊氏と、後醍醐天皇との対立が原因で、1336年に勃発した一連の戦乱です。当初は南北朝合一を目指す後醍醐天皇の新政に対して、幕府復興を求める足利尊氏が反発し、戦いが始まりました。結果的に足利尊氏が勝利して、南朝と北朝がそれぞれ成立することになりました。建武の乱は、南北朝時代の始まりとされています。

とりあえず、今回はここで一旦完成とする。

まとめ

 今回の記事を書くに当たって気づいたのは、単に細かく情報の入力をしても、チャットGPTは良い記事を出力するわけではなかった。
 大きなテーマを決めて、それをチャットGPTに書かせた後、事実誤認や完全に架空の嘘を修正する情報を入れて記事を出力させる
 その後に小さなテーマを決めて、それに合わせた記事を出力させて、それを修正する情報を入れて記事を出力させる。
 これを自分が満足できる記事を書くまで繰り返す。

 だから、チャットGPTに記事を出力させる場合、膨大な知識と記事の方向性を決める計画性と、根気がいる。


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