『私はヴァレンティナ』を観て印象に残った3つのこと。
ごきげんよう。雨宮はなです。
先日、試写で『私はヴァレンティナ』を鑑賞し特に印象に残ったことが3つありました。今回はその3つについてまとめます。上映開始から2週間も経過していますし、ネタバレがあっても問題にはならないでしょう。
※台詞はおおよそ覚えているものであって、内容が正確でない可能性があります。また、字幕そのままの言い回しで記述してありません。
名前について
作品名にある通り、主人公の名前は「ヴァレンティナ」です。細かく言えば、通り名が「ヴァレンティナ」です。本名は別にあります、出生届にある名前:親がつけた名前は「ラウル」。
母親はヴァレンティナと呼ぶし自分の子供がトランスジェンダーであることを受け入れていますが、父方の祖母は受け入れられず、電話越しに「ラウル」と呼ぶシーンがあります。相手をどのように認識しているのか、どのような存在であることを希望しているのかを示すのに名前だけで十分だと気付かされたシーンでした。
そりゃあダンブルドアも「『名前を呼んではいけないあの人』ではなく名前を呼びなさい」って言いますよね。ちょっと飛躍しましたが、ことばには言霊が宿るなんていわれもありますし、何より名前っていうのは一種のまじないと同じです。自分を表すもの(名前)を自分なり誰かなりが声に出して呼ぶ…言霊の力を得るというのは、私たちが無意識に行う呪術的な行為ともいえます。ディズニー作品『美女と野獣』における主人公「ベル」はフランス語で「美しい、素晴らしい、美人」という意味なのだとか。彼女を美人たらしめいているのは外見や勇気だけでなく名前でもあったといえます。
この作品内にそんな理由があったとか考えていたなんて描写はありません。なぜ「ヴァレンティナ」なのかも明かされていなかったはず。ですが、名前にこだわるのは子供っぽい自己主張でもなんでもなく「これが私だ、私を正しく認識してほしい」という何よりも効果的な主張だったのだと気づかされます。
”他人は自分が自分を扱うように、貴方を扱う”という教えも聞くようになって久しいですが、ヴァレンティナはそれをよくわかっていた。だからこそ、『私はヴァレンティナ』と主張したのです。その成果のひとつがラストシーンです。点呼をとる先生に「ヴァレンティナ」と呼ばれ「います」と返答をする、たったそれだけのことですが何よりも彼女が望むことが起こった証明でした。
キスについて
ヴァレンティナの友人で同性愛者であるジュリオという男の子も、頼りないちゃらんぽらんな印象とは裏腹に重要な役割をしょって登場します。
彼はそれこそ、自分をテキトーに扱います。「同性愛者の自分に望めるものは多くない、求められる形でつながれるならマシだ」という認識で、「男とセックスしたいから、フェラチオさせたいから」という呼び出しに応じるようなタイプです。
呼び出されたシーンでジュリオが相手の男にキスをせがむと「それよりフェラチオしてくれよ」とあっさり流されてしまいます。ジュリオも仕方ない、という具合に相手に従いますが、それは何故かと仲間内できかれると「男とキスしたなんてプライドが保てなくなる原因なんだよ。キスしてなければ彼らにとってセーフなんだ」と回答。
名前の章でも少し触れましたが、”他人は自分が自分を扱うように、貴方を扱う”という点においてまさしく”男たちはジュリオがジュリオを扱うように、ジュリオを扱っただけ”なのです。ジュリオが「自分はキスや恋愛を求められる人間じゃない」と位置付けているから、そう扱う人間に囲まれていた。それじゃいやだ、となってから初めてキスをされます。
映画の終盤でさらっと流れていく短いシーンですが、私はとても大きな要素に感じられました。ジュリオがヴァレンティナの周りにいたメタ的な理由がようやく明らかになるし、ヴァレンティナの点呼を盛り上げる、呼び水のような役割に思えました。
性被害を防ぐために
最初、クラブで踊るヴァレンティナに男がアピールしてきて「なんだ、男かよ!」「それにアピールしてきたのはお前だろ!」とトラブルになります。ジュリオは男たちに蔑まれながら不当に扱われます。クラスメイトの一人であるアマンダは未婚の母です(相手不明、パートナーの名前すら出てきません)。
若干17歳にして性被害にあっている若者が、小さな町のひとつの教室に集まってしまう恐怖がこの作品にはあります。
レイプ被害は今回触れませんが、自己主張や表現、さらには選択の自由について私たちはもっと慎重になるべきだと考えさせられます。「クラブで知らない人とべったりくっついて踊るなんて!」「自分を大切にしてくれない人と体の関係をもつなんて!」という忠告を「古い人間の言うこと」だとバカにした結果、自分を傷つけるのは自由の代償とするには大きすぎるでしょう。
加害者が悪い、暴力をする人間が悪い─それは最もです。ですが、加害者たちは無意識的に加害することに、私たちはもう気づいています。被害者とならないために努力する必要があることから目を背けてはいけません。
「相手に嫌われたくないから」「自分を魅力的だと感じたいから」なんて理由で雰囲気に流され、口車に乗せられることで傷つくのは自分です。自分が自分の加害者にならないために私たちは「古い人間の言うこと」だと感じられるものを改めて見直すタイミングなのかもしれません。
もちろん、「いやよいやよも好きのうち」だの「追われているうちが花」だの好意の押し付けという暴力を認める「古い人間のいうこと」は気にする必要がないし早く撲滅すべきです。
さいごに
社会的な問題を扱った作品を鑑賞すると、私はまっさきに「自分」と「自分の周り」について考えます。「他国の見知らぬ誰か」に起こっている悲劇を憂うことや、解決に向けて動くことが無駄だとは思いません。ですが、まずは自分が課題とどのように関係しているのか、自分を見つめなおすための情報だと認識しています。
SDGsなど世界的な取り組みが生活の中でも聞こえるようになり「人類のための大きなミッション」だと認識しがちですが、この作品の舞台のように、「自分とその周り」に十分解決すべき課題があるのではないでしょうか。
最後まで読んでくれてありがとうございます。
ではまた次の記事で。ごきげんよう。