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【午前十時の映画祭11】映画『マディソン郡の橋』を観てきた【27分の5】

ごきげんよう。雨宮はなです。
ようやく映画館が日常に近づいた、記念すべき日でした。そんな今日は私の大好きな故マリリン・モンローの生誕日でもありました。昨日はクリント・イーストウッドのお誕生日だったそうで。めでたい日が続きますね。ちょっと遅れたけど、明日はケーキを買ってこようかなと思います。

さて、今回鑑賞してきた『マディソン郡の橋』は数年前にDVDで鑑賞したことがありました。不倫を扱った作品はたいてい脳内物質が制御できなくなった結果を描くに至ることが多く陳腐になりがちなので好まないのですが、この作品だけは別です。それは何故か。

※ここから先はネタバレを含みますので、ご了承いただける方のみ読み進めてください。

フランチェスカの選択によるトゥルーエンド

この作品の何を語るにしても、この大前提が必要になります。それは、”この映画作品がトゥルーエンドで終わっていること”です。そもそもトゥルーエンドとは、RPG等物語を展開するゲームにおいていくつかのエンディングが用意されているものの内から、「最も理想的とされるエンディング」とされるものです。

エンディングにはハッピーエンド/バッドエンド/ノーマルエンド/トゥルーエンドのおよそ4つがあり、ハッピーエンドとノーマルエンドは同一の場合もあります。ハッピーじゃないのにトゥルーってどういうこと?まさしく、この映画作品のエンディングがそれなのです。

端的に言ってしまえば、”フランチェスカ(演:メリル・ストリープ)はロバート(演:クリント・イーストウッド)の誘いを断り、家に残って妻として母として生き抜くことを選んだ”というのが今作のエンディングです。
これが”誘いに乗って「二人で幸せをつかむわ」”なら、おそらくハッピーエンド。ただし、怖ろしく陳腐で倫理観も何もないものになります、はっきりいって駄作に成り下がっていたことでしょう。
また別に”誘いに乗ったはいいものの家族や町の人にバレて針の筵になった””誘いを断ったけど、精神を病んでしまった”のであればバッドエンドです。でも、今作は?

今作は「誘いを断ったのは妻・母としては正解であり、最終的にロバートと同じように葬ってもらえた」のです。これは考えうるなかで「最も理想的とされるエンディング」と言って良いのではないでしょうか。
そして、この作品が名作たりえるのはこのトゥルーエンドであってこそ、なのです。何度でも言いますが他では駄作になってしまう。トゥルーエンドだからこそ、不倫ながらも彼らのもった感情を純愛だといえるし感情や言葉の応酬に浸れるのです。

橋と家

この作品で、というより彼らの不倫関係が4日間も続いたのは間違いなく環境が味方したといえるでしょう。車を使わないと隣家にもいけないような片田舎という地理的環境。家族が金曜日には帰ってくる(それまで4日間しかない)という時間的環境。これが揃わなければ彼らのロマンスはあんなにも純にならず、ひょっとしたらすぐに周囲にバレてしまっていた可能性があり、なんなら成立しなかった可能性さえあるのです。

作品中、ディナーデートの約束をするシーンがあります。久しぶりのデートのお誘いに喜び浮かれたフランチェスカですが、町の人間にバレた場合の彼女を案じたロバートの気持ちを汲み、橋で待ち合わせをし、ディナーも家で済ませます。後日に外デートもしますが、ロバートが選んだのは町の人が絶対に来ないようなパブでした。店探しに慣れているのがさすがといったところです。

彼らのデートシーンを観ていて気付いたことがあります。当たり前といえばそうなのですが、橋(屋外)と家(屋内)で扱う話題や見せる表情が違うのです。

橋でのデートはシャツ×デニムパンツで爽やかな装いでした。話題は人となりを知ろうとするものがメイン。一方、家でのデートは付き合いたてのお猿さん状態のカップルもしくはロマンチックなセフレといった具合に性的なつながりを持ったり、愛の言葉をささやくのがメイン。

家=フランチェスカ?

女性であるフランチェスカの感情が爆発するシーンは家の中で起こります。これは、家(妻・母)の中に閉じ込められたフランチェスカ本人の女性としての人格の表現なのではないかと考えました。もはや、家=フランチェスカなのではと。

ロバートが家を出てしまったときに、なぜ玄関先までしか追わなかったのか。自分も車に乗り込んで追うことだってできたのに。これこそ、彼女が家に縛られている、家という存在である表現なのではないでしょうか。
エンディングでも、車(夫)から出てロバートのもとへ向かうか葛藤します。結局実行しなかったのは、彼女は家に在る人格なのであって車に在るのは彼女の体だけ、だから踏みとどまることができた。そう考えても良いと思うのです。

温度と湿り気を感じるやりとり

この作品の魅力のひとつに、クリント・イーストウッドとメリル・ストリープによる熱演が挙げられます。彼らのすばらしさは台詞の応酬もそうですが、黙っている時や佇まいによく表れると感じます。

暖炉の前で寝そべりながら話そうとしても涙ぐんでしまって上手く話せないフランチェスカや、食事にしようと集まったのにおもむろにリードをとってダンスに誘うロバート。ふたりがバスタブで寄り添っているシーンの静かさのなかにある騒めきと熱っぽさと湿り気は、ベッドシーンよりもキスシーンよりもよほど官能的で、かつあたたかなものを感じました。
あの二人にかかれば、肌も呼吸も汗も涙も演技を始めるということでしょうか。

故人の遺志を尊重してほしい

この作品はもともと死亡したフランチェスカの遺産相続と遺品整理の話し合いのために、子供たちが実家を訪れるところからスタートします。
フランチェスカの遺言や手記の内容にビックリ仰天した息子(兄)は

「ママンが不倫なんて…セックスなんてするはずないもん!しちゃいけないんだもん!」
「火葬だって?!ありえない!ママンはパパンの隣で眠るんだもん!!ほら!相手の男が唆したんだ!そうに決まってる!!」

とひどい醜態を晒します。娘(妹)は冷静なもので、フランチェスカの遺志をきちんと確認すべく、そして少し面白がって手記を読み進めます。

この作品だけでなく、他の作品でもそうなのですが…。遺族はなぜ故人の最期の望みを否定するのでしょうか。ただ否定するのではなく、「ボケていたのだ」と一蹴してしまう場合もあります。
生きている人間が「そうしたいから」「そうしたくないから」で故人の遺志が蔑ろにされるのを現実でも見てきました。その度に私は「あぁ、こいつは故人のことを愛していないし、敬意も払っていないのだ。所有物だと思っているのだ」と悲しみと怒りをおぼえるのです。

作品中では結局、手記の内容と手紙による訴えによりフランチェスカの願いは叶います。「私は家族に一生を捧げてきました。最期に残った身くらい、彼に捧げたいのです」という一文で納得できなければ、息子はとんだ親不孝者になりさがっていたことでしょう。遺灰が風に乗って、ようやく故人の遺志が尊重されたことが確定し安堵しました。

かつて、自称弁護士に言われた言葉があります。「遺書はただの手紙、紙きれなのだ」と。正式な遺言状でなければ法的効力はないのだと。そこにいた遺族はこう続けました、「遺言状があっても関係ない」と。それを聞いた私と友人は非常にショックを受けました。
そんな経験があり、「自分の最期はこんなふうに土足で踏み荒らすような輩を近づけたくない。自分の願いをきいてくれる人こそ、真に自分を愛してくれる人だ」と強く思うようになりました。

今回フランチェスカの終活の成果を目の当たりにし、参考にしようと思ったのは言うまでもありません。あれほどに準備されていなくとも、普段の言葉を覚えていてくれる人が、考えを知っていてくれる人が世界のほとんどであったなら。死してなお、悲しむ人はほとんどいなくなるのにと思ってしまいました。

おわりに

こうしてみると、ただ恋愛を見守っただけでないことがよくわかります。恋愛を通して自分という人間を個人だけでなく責任の観点からよく観察し、選択したものが死後の安らぎにまでつながっている。生き方が表された名作だと、改めて思いました。今回、スクリーンで観られたのは本当に幸運でした。

最後まで読んでくれてありがとうございます。
ではまた次の記事で。ごきげんよう。

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