がんばるひとと、たしろさんと、しつどが、だいすき
シメシメシメシメ……
進む、進む、列をなして。
昨日の雨と打って変わって今日は朝から春の太陽が照る。窓際に重たく溜まっていた湿気が急速に蒸気となって消えてゆく。
シメシメシメシメ……
進め、進め、目指すは台所のシンク下。常駐の湿気は栄養価が極めて低いが、こう晴れていては贅沢も言っておられぬ。
シメシメシメシメ……
「シッ」
一本の線のごとく続いていた列が乱れた。引き戸の溝に一匹がつまずいたのだ。二センチメートルほどのカラダには過酷な道のりである。
倒れた仲間の周りに小さな円団ができる。
「シメ!」
「シメ!」
声援を受けた一匹がすっくと起き上がり力強く頷くと、隊列は再び前進を始めた。
シメシメシメシメ……
「どうです? いい部屋でしょう。少し古いですが階下には大家も住んでいるので女性の一人暮らしも安心ですよ」
温和な不動産屋の男性と共に物件の内見に訪れたユウリは、入った時からここだと決めていた。玄関のすぐ左にコンパクトな台所、右には銭湯のようなタイルの風呂場、続いてトイレ、この一式が十平米ほどの板間の部屋に収まっており、濁ったガラスがはまった木枠の引き戸の向こうは押入れのある六畳の畳部屋だった。なんて素敵な昭和の残り香。昭和、知らないけど。
一階の大家さんは田代さんというおじいさんで、あまり笑わないけれどいい人そうだった。
「窓の立て付けにガタが来て、入ってもらう前に直しといた。他にも不便があったらすぐ言いなさい」
泥だらけの大きな白菜をどっしりと渡して田代さんは暗い部屋にすうっと消えた。両手で白菜を抱えながらユウリはよろよろと階段を昇り、部屋のドアノブを回してスニーカーの爪先を扉に挟み、その隙間へ体をねじ込んだ。さてこの「お近づきのしるし」をどうしたものか。引越しで残っていた新聞紙の上にごろんと白菜を置き、外側から葉をちぎる。泥がぽそぽそと新聞紙にこぼれた。三枚ももぎ取ると今夜のおかずには多すぎるくらいの量だが、白菜の塊が小さくなったようには見えない。仕方なくスーパーの袋に入れて冷蔵庫の横に転がしておいた。
豚肉と白菜の炒め物(豚肉:白菜=一:九)で夕食を済ませ二三時に布団を敷いた。
「そんなんで食べていけるほどの甘い世の中ちゃうぞ」
「一年だけやってみたらええよ。ユウリの結婚式用にお母さん貯金してたから、それ使い」
上京の朝に目も合わせてくれない父と、新幹線の中で食べなさいとアルミホイルにくるんだおにぎりを鞄に詰める母の姿が、紫色のもやの向こうへと霞んでいった。手を伸ばすがじっとりと濡れそぼった濃緑の苔の中へユウリの脚はずぶずぶと沈んでゆく。ゆっくりと、ずぶずぶずぶ。
ほうっと目が開くと新しい布団の匂いがして四角いシーリングからぶら下がる紐が見えた。時計は夜中の二時半だった。頑張れるだろうか。くじけるかもしれない。肩を落として実家へ戻るのはさぞ惨めだろう。重たい苔の感触が残っていた。
カサカサ、カサカサ。台所の方から小さな物音がしていることに気が付いた。入居早々にゴ……。勘弁してくれ。身体を強張らせて聞き耳を立てる。カサカサカサ。畳部屋の灯りを点けて暗い板間の方を覗く。カサカサ。意を決して台所へ踏み込み戦闘態勢に切り替えてぴりりと耳を澄ませた。白菜のビニール袋に敵は潜んでいるようだ。音を立てぬよう爪先立ちの大股歩きで近付く。首を伸ばして中を見るが敵の姿は捉えられない。思い切って袋の持ち手を撫でてクシャクシャと鳴らしてみると、ぴたりと音が止んだ。
「……メ?」
「シシ?」
「シメ?」
「シメシメメッ!!!」
きいきいと甲高い鳴き声がして袋から次々と細長い生き物が飛び出した。うひゃあ! とユウリが後ずさるとそれらは台所のシンク下の扉の隙間にぴょんぴょん跳ねながら逃げ込む。板間のガラス戸を閉めて一目散に布団へ退散しユウリはそのまま気絶した。
朝。訪問に際して失礼に当たらない時間帯を十時に定め、時間きっかりに田代さんの部屋のチャイムを鳴らす。
「どうした」
「お早ようございます! あの、昨日の夜に台所で、ええと、大きな虫? みたいなのが沢山いて、それで、流しの下にまだ居ると思うんですけど、怖くて開けられなくて」
「虫」
「あ、はい多分」
「見てあげよう」
「ありがとうございます!」
田代さんが台所に膝をついて扉を開けるところをユウリは背中越しに見守る。
「居る」
「な、なんの虫ですか」
「ふむ。これが見えたか。そうか」
どっこらしょ、と腰を上げてユウリに場所を譲った田代さんは「そうかそうか」と一人で合点している。かがんで薄暗い流しの下を見ると、隅の方にひょろりと細長い生き物が集まってこちらを見ていた。見ていた、といっても目がある訳ではないのだがユウリを気にしているように感じられた。そして、怯えているようにも。
「引越しまでして来たのに、迷っているのか」
と田代さんが言った。膝をついたままユウリは言葉が出ず、田代さんを見上げる。
「こいつらはシメシメしめじ」
「しめしめしめじ」
「こいつらはな、意気地なしにだけ見える」
「……」
「もう決めているんだろう。後は進むだけだ」
シメシメしめじは、一歩を踏み出せずにいる人に見えること、危害を加えてはこないこと、清潔な湿度を好むこと(白菜の袋の中など)、暑さに弱いこと、怖がりなこと、そして見守り応援してくれること。田代さんはシメシメしめじの生態を詳しく説明してから
「虫は、居なかったな」
と言ってあっさり部屋から出て行った。一人になったユウリはもう一度しゃがんでシメシメしめじを見た。
「昨日は驚かせてごめんな。いや、そっちも驚かしてきたけどな?」
ユウリは段ボールで器用に手のひらサイズの箱を二つ作った。小さな入口付き。一つに水洗いした白菜の芯を入れて部屋の隅へ置く。もう一つは明日の交換用だ。主に野菜のかけらを中に入れて日替わりで箱の清潔を保った。始めは箱の交換作業をシメシメしめじ達は怖がったが次の日には揃って箱の中ににょきにょき収まっていて、そのうちユウリが箱に野菜を入れる設置作業の周りに集まってくるようになった。
一週間ほどそんな日が続いただろうか。ある朝、目を覚ますと枕元にシメシメしめじ達が少し緊張気味にユウリを見つめていた。
「野菜、乾いてしもたん?」
とあくびをしながら体を起こすと、シメシメしめじ達はテトテトと入り乱れてひとところへ集まる。ぴっと整列した様は矢印の形をしていた。
「シメッ!」
と先頭が空気を割るような声で号令をかけると、流れるような滑らかさで矢印は前進を開始する。
シメシメシメシメ……
分速二メートルの徐行に着いて行くと、矢印達の目的地は唯一荷ほどきの済んでいない段ボール箱らしかった。
「ああ、そっか。せやな」
ユウリは段ボール箱のガムテープをぼりぼりと剥がして中を見つめた。始めないとな。始めないと上達も挫折も何も起こらない。陽のよく当たる窓際に箱の中身を全部出して一気に作業場を作った。
「なぁ、ありがと……」
振り返るとシメシメしめじ達の姿はなかった。畳の上に片膝を付いたままユウリは改めて
「ありがとうなー」
と静かな部屋に向かって言ってから作業机に腰を据えた。
今年初めての柿をシャクシャクとかじりながら、ユウリは昨日のサツマイモが入った箱を片付けて、柿のヘタを入れた箱と交換した。
「初物やで。今日もがんばるわな」
ぐぐいいっと伸びをしてから、ユウリは今日も窓際で作業を始めた。
おわり。
前回の『「ついでにパン買ってきて」みたいなノリで短編小説を依頼されたで』と同じ流れで書き始めました。
ドラマチックな140文字はお手の物、ハルトナル(twitter)のツイートを元にしています。
ゼロからでなく、人から一をもらうと自分では思いもよらない物語に仕上がります。第三段も予定中。乞うご期待。
発案 ハルトナル(note)
執筆 アメミヤミク
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