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【自己紹介】アメミちゃんってこんな人

過去に一度自己紹介noteは公開したことがあるのですが、2020年7月4日、Twitterのフォロワーさんが3333人を超えたことを記念して、加筆公開させていただきます。

普段仲良くさせていただいてる人もそうじゃない人も、こんな人生送ってる人がいるんだ~と、気軽に読んでいただけると嬉しいです。

アメミちゃんの生い立ち

私は生粋の道産子です。
北海道札幌市で生まれました。

お嬢様育ちの母と、ヤンキーの父が駆け落ちした末にできたのが私。

私が産まれる頃、中卒の父は一生懸命札幌のホテルの
レストランでコックさんをして修行をしていたそうです。

頑張って調理師免許を取ろうとした時、
母が産気づいて私が産まれ、
資格取得は断念したそうです。

母は保育士さんになるのが夢だったくらい、
子供が好きな人。

しかし、某大手乳製品のメーカーでお偉いさんをしていた祖父は
なかなかのドメスティックなバイオレンス人。

祖母が夜中に我が家に逃げてきて、
祖父が包丁を持って追ってきたこともありました。

母は早く家を出たくて大学進学を諦め、
寮が完備されてる就職先へと就職したようです。

私が3歳になる前には、両家は和解し
故郷である北海道伊達市に戻って暮らしていました。

私はたくさんの親戚がおり、みんなからたくさん可愛がってもらいました。

父方の祖母は、昔の人にしてみれば相当な変わり者。

元々は秋田の地主のお嬢様だったようで、
スーパー自由人だった祖母は、
政略結婚をさせられてしまったあとに
子供がいたにも関わらず家出をして、
子連れで北海道まで逃げてきた人です。

とても笑い上戸で、横に大きなばあちゃんが
私はとっても大好きでした。

ばあちゃんの孫、私のいとこにあたる人たちが
15人いるのですが、みんなでよく話すのが
「ばあちゃん、暑い日によく上半身裸でとうきびかじってたよね~」とか
「大量にゆで卵茹でて、ひたすら白身食べて黄身捨ててたよね~」とか。

もう、キャラの濃さしか感じません。

高校生の時、神社のお祭りに行ったら、ばあちゃんも来てて、
ばあちゃんが髪の毛を紫に染めてたもんで
友達が衝撃受けまくってたことを今でも鮮明に覚えてます。

比べて母方は、とても由緒あるおうち。

私が育った北海道伊達市は、
伊達政宗の分家にあたる
亘理伊達家が開拓した土地。

戊辰戦争で戦いに敗れた仙台藩は、
62万石から28万石に減封され、
傘下の亘理伊達家は、
わずか58石5斗に減らされてしまいました。

これでは到底、
家臣とその家族を養っていくことができないので
朝敵と罵られながら、唇を噛んで北海道に渡り
開拓した土地が伊達市なのです。

その開拓者名簿の中に、
私の母方のご先祖様の名前があります。

お墓を見ると“享年 2歳”など
子供たちがたくさん亡くなっている様子なので
開拓中の暮らしは相当大変なものだったのだと思います。

保育園時代

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3歳の頃、私は保育園へと入園しました。

なんと、きっかけは、私が保育園に入りたいと自分で言ったそうです。

当時は、ボロボロの長屋に住んでいました。

結構大きな団地も近くにあったため、
近所の公園にはたくさんの子供がいました。

恐らくそこで、”保育園”という情報を拾ってきたのだと思います。

その頃から人間が大好きだった私は、
保育園に行くとお友達がたくさんできる!
と思ったのかも知れませんね。

小学生時代

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小学生の時には習い事をたくさんしていました。

ピアノは恐らく4歳くらいから習っていて、
保育士さんが弾いた伴奏を私が真似て弾いたらしく
保育士さんから絶対ピアノ習わせた方が良いと言われ
高い月謝を払ってピアノ教室に通わせてくれていたようです。

小学校に上がる前から、書道も習わせてもらってました。
小学生の時に、先生に「美味しいパフェ食べさせてあげる」と言われ
札幌まで連れていかれ、月寒グリーンドームで開かれた
書き初めの大会に出され、なぜか全道2位だった記憶があります。

予定通り、パフェはご馳走してもらえたので大満足でした。
生徒数50名ほど、自宅で習字教室をしていた先生は、
地元では「超怖い」で有名な先生でした。

50cmの物差しを持って教えていて、叩かれる生徒もいました。

そんな先生が、数ある生徒の中から私を選んで
大会に連れてってくれたことは私の自慢の一つでもあります。

他には、英語を習っていました。

サモアから来た同級生のお母さんが先生だったのですが、
今思えばすごい訛りのある英語でした。

りんごは「エイボー」と教わっていたため、
中学校に入って、英語の時間に衝撃を受けまくってました。

他には、テニス少年団に入ってました。

友達に誘われて、当時流行ってた一輪車で通ってました。

小学校5年生の時だったかな?

なぜか地区の選抜に選ばれてしまい、
泣くほどしごかれました。

友達と喋りたくて通っていた少年団だったので、
勝つための訓練は苦痛でしかなかったです。

さらに、小学校6年生の時だったかな?

これも友達に誘われて自転車少年団というものに入ってました。

免許の試験のような学科と、
決められたコースを正しく走行する実技。

この二つの試験で大会が開催されており
北海道大会の団体戦で優勝したら、全国大会は東京なので
ディズニーランドにも連れてく!と言われ入りました。

結果、北海道大会で優勝。

無事にディズニーランドに連れてってもらい、
生まれて初めて「夢の国」を堪能させてもらいました。

小学校6年生の時、初めて委員長というものをやりました。

保健委員長だったのですが、
当時の保健室の先生が産休に入るとのことで、
ひと通り保健委員でやることを任され、
後任の先生にお伝えする役目を担いました。

今考えたら凄いですよね。

小学校で一番嬉しかったのは2つ。

鼓笛隊のポンポン(チアリーダーみたいなやつ)に選ばれたこと、
卒業式に歌う”巣立ちの歌”の伴奏者に選ばれたことです。

ポンポンは大人気だったため、激戦でした。

見事選ばれ、一番先頭を歩くことができて、本当に嬉しかったです。

そして卒業式の伴奏者は、希望者は多かったものの
そこそこ難易度の高い楽譜だったため弾ける人が少なく
あっさり選ばれてしまいました。

中学生時代

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中学に入り、塾にも通い始めました。

一つは個人塾。

週2回通ってました。

もう一つは進学ゼミ系の塾。

土曜日コースで、15時~21時という驚くべき長さでした。

大学生が教えていたのですが、
その当時は先生がカッコよく見えて仕方なかったですね。

あ、ちなみに、私の恋愛事情にも触れておくと、
初めて付き合ったのは中学2年生のとき。

野球部の男の子に校舎裏で告白されました。

なんと、その告白、ほとんどの野球部員が隠れて見ていました。

しかし、周りから冷やかされることに相当しんどさを感じ
結局1ヶ月でお別れさせてもらいました。

若さですね。

その後、学校で1、2を争うほど人気があった
陸上部の1個上の先輩と噂になりました。

ある日突然、その先輩が階段で私にぶつかってきて、
気が強かった私は普通に睨みました(笑)

教室まで来て謝られ、教室は騒然。

そして、まさかの、家電にまで電話してきて、
謝って来てくれたのです。

その先輩、裏ではかなりワルと有名な人だったので
何があったのか!?ってほどでした。

それからちょくちょく家電に電話がかかってくるようになり、
長電話をしたりするようにもなりました。

さらに仲良くなって、学校で話をしたりするようになりました。

物凄い人気者だったので、
学年問わず女子からの嫉妬は半端なかったです。

この人は私と付き合うのか?という謎を解決すべく
直接本人にも聞いたのですが、その様子はなさそう。

結局、付き合わずのまま、先輩は卒業してしまいました。

しかし、ポケベルやPHSの普及もあり、
私が中学卒業するまで連絡は途切れず続きました。

私が中学卒業する時に先輩から、
「高校進学して、他の男に取られるのが嫌だから付き合いたい。」
と言われました。

当時、私は、高校に進学したら
素敵な彼氏をゲットするぞー!モードだったので、
先輩からの告白は断ってしまいました。

ほろ苦い思い出ですね。

部活は小学校に引き続きテニス。

しかし、かなり委員会活動を頑張っていた私なので
テニスの腕はあまり上達しませんでした。

委員会は、学級長をやっていたので、学年委員会という
なんかちょっと偉そうなのに入ってました。

その中でも学年委員長。

今考えたら、よくやってたなって感じです。

学校祭などではかなりのリーダーシップを
発揮しなければならなかったので、
「学校祭なんてかったり~よ」みたいな男子から
下駄箱の靴に画びょう入れられた事もありました。

それを何気なく仲良かったワルの先輩に話してしまい
次の日画びょうを入れた男子が殴られた痕があったのは
今でも少し背筋が凍る思い出です。

高校生時代

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高校に入り、友達に誘われて
男子バレー部のマネージャーになりました。

そして、すぐに、
1個上のバレー部の先輩と付き合いました。

しかし、この先輩とも、
1ヶ月ほどでお別れさせてもらいました。

理由は「服のセンスがあまりにもダサかったから」です。

若さですね(汗)

別れてすぐに、同時に3人の男性に告白されました。

これがモテ期!?

同じ学年、1つ上の学年、2つ上の学年の人。

若干付き合うことに対して、
めんどくくささを感じ始めてたので
全員お断りしようと思ってました。

すると、同じ学年の人が、
「3人いたらどれか1人にするのが筋だろー!」と言い始め、
結局何も考えずにその人と付き合うことにしました。

友達として超仲良かった人なのですが、
結局2ヵ月経って向こうから別れたいと言われてしまいました。

理由は、「お前といたら上級生がいっぱい話しかけてくるから。」

なんちゅう理由だと思いつつも、
確かに当時は、歩いてれば遠くからでも
上級生が手を振ってくれるような状況でした。

中学の時から引き続き、高校でも
学級長とかHR委員長的なのをやってました。

そういうのが好きなわけではなく、
一度やったら流れでやらされてただけです。

バレー部は弱小校でしたが、
負けず嫌いの私はどうしても負けるのが許せなく
自分たちでも朝練を始めたり
練習方法を工夫したりするようにして
最終的には全道大会まで出場しました。

全員バレー素人だったので、
すごいことだと思います。

私は、可愛いマネージャーというよりは、
かなり厳しいマネージャーだったので
他の部から「鬼マネージャー」と呼ばれてました。

合同練習があったりする関係で、
他校とも関わりも強く
地区では私を知らない人はいませんでした。

そのくらい、熱心に練習に参加していたと思います。

余談ですが、そんな私でも他校の選手からもたくさん
付き合って欲しいと言っていただきました。

青春ですね。

高校卒業時に、親友から
「高校在学中に合計何人に告られた?」と聞かれ
ノートに書き出すとピッタリ20人でした。

良き思い出です。

話は戻り、同級生の彼氏と別れてからは、
ずっと2個上のバレー部の先輩に
猛烈アタックされてました。

家の前で待たれてたこともあるので、
おそらくストーカーレベルです(笑)

クリスマス間近のある日、
ついに付き合うことをOKしてしまいました。

しかし先輩は受験勉強真っ只中、
あまり会えない日々でした。

無事に大学受験が終わってからは、
学校が終わると毎日家に来てました。

家に来て、うちのお母さんに
「今日の夜ご飯な~に~?」と言うほど。

一人っ子ということもあり、
スーパー自由人でした。

先輩とは、哲学的な話をたくさんしました。

私にとっては、初めて心通わせて
会話をした相手になります。

しかし、そんな楽しい日々もすぐに過ぎ
先輩は札幌の大学へと進学してしまいました。

そう、遠距離恋愛ってやつです。

ここで衝撃的だったのは、
遠距離恋愛に耐えきれず先輩が
自殺未遂をしたということ。

そして、私も悩みに悩み過ぎて、
結局、自殺未遂をしてしまいました。

今となっては普通に話せることですが、
当時は本当に死にたいと思ってましたね。

仲良くしてた保健室の先生から、
心療内科もしくは精神科に行くよう勧められました。

心療内科では自律神経失調症と言われました。

精神科では、なぜか診察中に気絶してしまい
かなり容態悪い人みたいな扱いを受けました。

その後、臨床心理士さんによる
カウンセリングが始まりましたが
先生の顔がデカすぎることが気になり
話の内容は全然覚えてません。。

「その彼氏の影響が大きいですね~。」と
誰でもわかるようなことを言われたことは覚えてます。

その先輩は一人息子。

自殺未遂をしたことでお母様が心を患ってしまい、
その後にガンまで見つかってしまいました。

お父様から、お母様が病気になったのは
おまえせいだー!くらいに私は言われ
結局別れることとなりました。

この時私は、高校2年生。

残りの高校生活は、先輩と別れた寂しさを
大きく引きずるような形となってしまいました。

ちなみにその先輩はその後、
知る人ぞ知る北海道の
有名バンドのボーカルとなりました。

歌詞を見ると、私と話していた内容がよく登場しており
今でも若干複雑な気持ちになります。

高校生の時、全然本を読む習慣がなかった私なのですが、
物凄く頭が良かった先輩(彼氏)が読んでいた本で
強く興味を惹かれ読んだ本がありました。

「シーラという子」

これが私が心理学の世界へと入っていく
きっかけとなった本です。

それから心理学の本は、
山ほど図書館で読みました。

高校が進学校ということもあり、
臨床心理学を学びたいと思うようになりました。

行きたい大学を2つほど親に言うと、
「うちはお金がないから大学は無理」
と言われてしまいました。

当時は、奨学金制度とかも知らなかったので
結局そのまま高校を卒業して
札幌に出ることにしました。

札幌に出てから

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札幌では、コンビニと焼鳥屋でバイトをしました。

何やろうかな~?と考えていた中で、
音楽関係の人と出会いました。

昔GLAYのメンバーの一人とバンドを組んでいた人で、
一緒にバンドをやらないかとお声がけしてくれたのです。

嬉しいなぁと思いつつ、
少し活動を開始していたのですが
結局その人からのセクハラが嫌で離れました。

そして、同じコンビニで深夜にバイトしていた
1歳年上の人と付き合いました。

彼女ができたのは初めてだったようで、
イケメンだけど気が利かないみたいな人でした。

そして、付き合っていくうちに、異変が…

多重人格障害(解離性同一性障害)だったのです。

いきなり人格が変わって、
その時の記憶がないといった感じで
結局、心療内科に行き、診察中にガラスを割り、
警察が来て、そのまま精神病院へと
入院することになりました。

その当時私は、知人から
有名編曲家の先生をご紹介いただき、
その先生に弟子入りするため
東京に引っ越そうかと考えてた時でした。

多重人格の彼に別れを告げたものの、
別れたくないの一点張り。

彼が入院していた精神病院は、
自殺防止のためトイレも
施錠できないようになってました。

そのため、プライバシーの権利を一旦親に預けるような
手続きを踏んで、入院するような形でした。

しかし、彼の親が、ずっと入院していることを不憫に思い、
退院させてしまったのです。

それからというもの、待ち伏せ、付きまといが激しく、
私の親がリアルに刺されるんじゃないかと心配してました。

そんなこんなで彼から逃げるように上京。

19歳から、東京での生活が始まりました。

ミュージシャンへの道

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東京に出てくることは、
はじめは親には話していませんでした。

事後報告で伝えると、
お母さんからお手紙をもらいました。

そこには、「心配だけど、可愛い子には旅をさせよ
っていうから、応援してるよ」と書かれていました。

泣けてきますね。

東京では、その先生の元で、編曲を学びました。

NHKホール、レコーディングスタジオ、
色んな現場に同行させてもらいました。

その先生、おじいちゃんに近い年齢だったのですが
超高級な車に乗っていても
後部座席にはたくさんゴミが転がっていたり…

車のCMの音楽を手掛けた付き合いで
その車を買ったらしいですが
全然車に興味がないとのことでした。

ただ、その先生によく言われたのは、
音楽の世界に入るのもいいけど
本当は結婚して子供を産んで
幸せな生活を送った方がいいと思ってる、と。

今思えば、本当に私の幸せを考えてくれている
いい先生だったんだなぁと思います。

その先生は、シングルファザーで子供が二人。

「子供たちは、成人して家も出てるのに、
恋人連れてうちにご飯食べに来るんだよ~」と
ダルそうな口調でありつつも嬉しそうに話してました。

そして、「美味しいご飯さえあれば
子供たちは絶対家に帰ってくるから~」と言ってました。

音楽と全然関係ないことまで教えてもらってましたね。

この時、並行してバンド活動もしてました。

私の担当はギターボーカル。

作詞・作曲・編曲を手掛け、
多い時だと月に5回もライブしてました。

作詞・作曲・編曲・練習・レコーディングの時間を考え
最初は月に1度くらいのペースで
ライブにしようと思っていたのですが、
結局色んなイベントに引っ張りだこになってしまい
全然寝る暇がないような生活を送っていました。

私には、顔がそっくりな2歳下の妹がいるのですが
当時は私を追って上京してきた妹を養ってました。

というのも、妹は専門学校に通っていたのですが
バイトの面接を受けても落ちる落ちる…

結局一緒に暮らしている私が、
生活費の工面をしてました。

バンド活動がどんどん楽しくなり、
結局、編曲家の先生の元は離れてしまいました。

妹は専門卒業と共に実家へ戻り、
私はバンド仲間と一軒家を借りて暮らしました。

その間、表参道のカリスマ美容師と付き合ったり
代官山のショップ店員と付き合ったり
さらにはバンドメンバーと付き合ったり
結構自由に恋愛していました。

ちなみに私は芸人さんと一時期
仲良くさせてもらってたのですが
よく遊んでたのはこのくらいの時期です。

「間違いないっ!」の長井秀和さんとは
この時から今でも仲の良いお友達。

バンド活動は数年続いたのですが、
最終的に不仲で解散してしまいました。

それと同時に、100万円の
借金を背負うこととなりました。

そしてバンドでドラムをしていた人と、
お付き合いし同棲を始めました。

後に1人目の夫となる人です。

24歳くらいの時に元夫から
音楽業界を離れて欲しいと言われたため
音楽業界は24歳くらいで離れました。

ありがたいことにファンも結構いたのですが
自分で作詞作曲したものを聞いてもらう事が
物凄く自己満の押し付けに感じて
嫌気が指していた時期でもありました。

「私、本当に人のためになってるのだろうか?」

こんな風に考えてました。

今思えばきっと辞め時だったのだと思います。

一度目の結婚

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以前から、満員電車に乗ると吐いてしまう
という症状があったため、
健康に対して興味を持つようになりました。

カラダを動かすと身も心も健康になるんじゃないか!?と思い
某フィットネスクラブのレセプションで働きました。

ここでは、「社会人」と呼ばれる一通りの
マナーは身につけられた気がします。

上場企業でもあり、全国に150店舗以上ありましたが
働いた店舗が全国で3番目に売り上げを上げている店舗だったのと、
体育会系過ぎて人がすぐに辞めてしまう事が重なり
仕事中は目が回るほどの忙しさでした。

おかげで、効率的に業務をこなす方法を
たくさん編み出すことができました。

そして、一度目の結婚をする事になりました。

「専業主婦になって欲しい」との元夫の要望により、退社しました。

家事はもともと得意だったため、
多分「いい奥さん」という感じだったと思います。

元夫は、最初はプー太郎で私にお金をせびってくる
どうしようもないやつだったのですが、
私の勧めでとあるWeb系の会社に入社。

以前のバンドのWebサイトを作っていたのは元夫だったのですが、
その作品が評価され、未経験なのに某有名アーティストの
Webを担当する部署に配属してもらえました。

結局どんどん出世していき、
最終的には社長室まで行きました。

そんなこんなで忙しく仕事をしている元夫だったので、
帰ってくるのが夜中や朝方なんてのも多く
暇な毎日を送っておりました。

結婚してすぐに「子供が欲しい」と言ったのですが、
まだ早いという返答だったのでそのままに。

元夫とは、何年も同棲した上での結婚で、
私の親戚の子供たちも可愛がってくれるくらい
子供好きな人でした。

両方の両親から「早く孫の顔が見たい」と言われ
結婚に踏み切った部分もあり
私としては子供が待ち遠しかったです。

経理の道へ

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テニススクールやフィットネスクラブに通っていたものの
あまりにも暇だったので、元夫に
「試しに短期で働いてもいい?」と聞いてみました。

答えはOK。

面接を受けて合格し、
三井物産グループ系の子会社で
雇用実態調査のデータ入力チームに加わりました。

ずっと雇用実態調査はしてるわけではないので、
3ヶ月間の短期契約です。

直前にパソコン教室に通ったこともあり、
Excelはとても得意になっていました。

入ってすぐに、データ入力ではなく
チームのリーダーに任命されてしまいました。

データ入力の人たちの管理と、
実際に雇用実態調査のために足を運んでる人たちの
管理をする立場になったのです。

この時に、今後の人生を大きく変える
出来事がありました。

隣の島(デスクの塊)が経理部だったのです。

そして、この経理の人たち、私にとっては
すごくカッコよく見えました。

あ、めちゃくちゃ忙しそうではありましたが。

この時に、経理に目覚め、
まずは簿記!と思い、
資格の学校へ通い、
日商簿記3級を受けて見事合格をしたのが
私の数字に関わる人生の始まりでした。

そこからは、ひたすらビジネスマンとして
成長の日々でした。

元夫に、経理として働いていい?と聞き、
OKがもらえたので面接を受けて
IT系のベンチャー企業にパート入社しました。

そこでは、元ペパボで常勤監査役をしていた人が
直属の上司となり、色々教わりました。

上司は社外取締役だったこともあり、
結局半年で私が管理部のトップとなり
社員へと登用されました。

さらに学びまくっていた私は、
経営にも参画していくこととなり
経営会議のファシリテーターも務めていました。

ここで何を学んでいたかというと、
ひたすら「分析」を学んでました。

色んなセミナーに参加し、
財務諸表の数字を見た上で
どうしたら経営がよくなるのか?
という部分について
学び始めたのがこの頃でした。

銀行からの資金調達を初めて担当したのもこの時で、
一人で3,000万くらいの融資を引っ張りました。

社長は最後の面談と押印くらいだったので、
今考えたら未経験でよく融資通したな~という感じです。

当時は、融資審査が厳しいとかそういった知識もなかったので
必死に目の前の業務をこなしていた感じです。

経営悪化のための融資だったのですが、
その原因の一つが社長の浪費にありました。

浪費が酷くて、会社のクレジットカードと
キャッシュカードを社長から取り上げて
ハサミで切ったこともありました。

当時私はもう社長の側近だったのですが
社長への不信感は高まるばかり。

次なるステージへ行こうと思い、
公認会計士を目指してみようかと思いました。

あまり業務の詳しい内容は知らなかったのですが
会計系のお仕事が楽しかったからという理由です。

そんなこんなで辞める話をし始めたある日、
取締役COOから独立するから一緒に来てくれないか
という話をいただきました。

創業時はそんなにお仕事もないと思うから、
学校通いながらでいいんで…とのことだったので
少~し手伝うというような感覚でアサインを決めました。

しかし、なんやかんやがあってこのCOO、
起業するお金がないとのこと。

結局、私が創業資金を工面する形となり、
私はなぜか発起人&取締役となりました。

ホント、深く考えないで動いてる時期でしたね。

離婚

会社を立ち上げて半年後、私は離婚しました。

理由は、元夫が「子供はいらない」と言ったからです。

私にとって、子供のいない生活は考えられませんでした。

元夫とは、お休みの日はいつも一緒にでかけていたくらい
仲は良かったんです。

けど、子供を作らないとなると、
親が相当悲しむと思いました。

実は、結婚後すぐに「子供はまだいい」と言われてから、
定期的に子供欲しいよ?という話はしていました。

あまり話すとプレッシャーになると思ったので、
時々しか話していませんでしたが。

その度に、何かしらの理由をつけては
子供を後回しにされていました。

例えば、金銭面が不安だから、
子ども一人につき100万貯めたら子ども作ろうと言われ
二人欲しくて200万貯めたけど話してもはぐらかされたり。

そして、結婚生活も4年目に入り、
しっかりと聞いてみたところ
自分の子供はいらない発言が…。

ショックでしたね。

元夫からは、私と一生恋人のように暮らしたいとも
言われたのですが、私には無理でした。

なぜ子供いらないと思うのか、
理由については最後までわかりませんでした。

本人に聞いても、自分でもわからないと言うので。

そんなこんなで離婚して、再び独り身となりました。

取締役CFO時代

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離婚してからはひたすら仕事をしてました。

大原の公認会計士講座に行ってましたが、その時期は
経営していた会社が売上2倍利益3倍で伸び続けていたので
忙しくて講座に行くのが大変になってしまいました。

その頃にはそれなりに人脈も増えていました。

良くして下さってる公認会計士の先生に
今後のキャリアについて相談してみました。

すると、ちょうどその時期は、
直前の試験が簡単だったため合格者が多く
公認会計士が余ってるとのことで
「それだけ稼ぐ能力があるのなら、
逆に公認会計士を使ってあげて欲しい」と言われました。

想定外の答えで驚きました。

それからというもの、自分に必要そうな科目だけ受講し、
人に的確に指示したりできるくらいまで会計の知識を上げました。

この頃はエクイティ調達を始めた頃でもあり、
知識がどんどん役に立って嬉しかったですね。

ちなみに、一緒に経営をしていたパートナーは、
2歳下のイケメンでした。

一緒に旅行しまくってたくらい仲が良かったので
周りから結婚するのでは?と相当噂されました。

同じ部屋で寝た事も何度もありますが、
全く何もありません(笑)

仲良かったからこそ感じていたのは、
恐らく彼はゲイだということ。

今でも真実は闇の中です。

京都にも支社をつくり、
順調に業績を伸ばしていたので、
この時くらいから業績に伸び悩むIT企業を
コンサルしてくれないかという話が
舞い込むようになりました。

更に、経理業務に困っている会社さんに対して
支援を始めたのもこのあたりです。

そして、経営者に向けた
セミナー依頼が増えたのもこの時。

もはや何屋さん?となっていましたね。

当時顧問役で入っていたおじさんが、
今こんな会社の顧問やってるんだ~と知人に話した時に
「あ、あの凄い目立ってる女性取締役がいる会社?」
と言われたそうです。

メディアには全然露出してなかったですが、
私一部で目立ってたんですかね(汗)

ランチを手作りしている会社として
ちょっとした話題にはなりました。

社員さんたちは、プログラマさんやエンジニアさんが
多かったんですが、あまりにも不摂生だったので
私がお昼ご飯を作って出していました。

料理が得意で良かったです。

この時期は、相当自己投資もしていて、
100万円くらいの経営者プログラムとかも参加してました。

一緒に学んでいた人が、上場企業の社長さんや
大学の経営学部の教授だったりと
完全に私場違いなんじゃないかという感じでした。

しかし、こんな性格なもんで
しっかり意見は言わせてもらい
面白いディスカッションをさせていただきました。

修行と呼ばれるような場にもたくさん参加させてもらい、
すっかり神社仏閣歴史などが大好きになりました。

伊勢神宮、比叡山、高野山、御嶽山…
色んなところで修行させてもらったからこそ
今の私があると思っています。

当時の私は、警察官と付き合ってました。

彼に「修行なう」とLINEを送ると、
「張り込みなう」と返ってきて爆笑した記憶が。

離婚後は、誰かと付き合うことに
前向きになれずにいましたが
警察官の鏡とも言えるようなとても誠実な人柄に
心を打たれてお付き合いをOKしました。

当時、ストーカーの被害にあっていたこともあり
彼氏が警視庁というのはとても心強かったです。

さらに、その彼氏さんは、
高校の時のトラウマをなくしてくれました。

高校の時の彼氏との別れで受けた心の傷は思いのほか深く、
実は30歳を過ぎても変な形で引きずってました。

その彼氏さんとは1年くらいしか付き合えなかったですが、
今でも心から感謝してます。

一生一緒にいたいとお互い思ったのですが、
のっぴきならぬ事情で結婚することはできず
結局お別れする事となりました。

別れた理由は、警察の裏事情になってしまうので
ここでは書かないでおきますね。

別れてから2ヶ月くらい、毎日泣きました。

もう、普通に、打ち合わせ相手の前でも
号泣してしまうほどでした(苦笑)

仕事は相変わらず順調で、この時くらいから
ボランティア活動と歴史の学びが深くなりました。

知り合いの経営者に頼まれて、
「神社と古事記」というセミナーもしてました。

自国の神話を知らない民族は
100年以内に滅びるとも言われてますからね…
古事記はこれからも伝えていきたいですね。

ちなみに、アメミという名前、
古事記で一番最初に登場する神様の名前
「アメノミナカヌシ」からいただいたものなんです。

気学とかの勉強をしていたのもこの時で、
吉方位のお水取りもしてました。

そして、警察官の彼氏と別れて4ヶ月経ったある日、
今の旦那様からお茶のお誘いをいただきました。

再婚・出産・解散

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私も旦那も元ミュージシャンという繋がりです。

初めてのデートは、私が子宮を手術した影響で
少し先延ばしになってしまいました。

術後の経過も順調な中、
旦那とお付き合いすることになりました。

体力が落ちていたこともあり、
付き合って1ヶ月後の御岩山登山からはじめ
2ヶ月後には筑波山、3ヶ月後には富士山へと登りました。

なんで山!?という感じですが、
私がどうしても頂上にある神社に行きたかったため
付き合ってもらった形なのです(笑)

そして、富士登山を無事に終え、
帰宅後にプロポーズしていただきました。

本当は富士山頂でプロポーズする予定だったらしいのですが、
その日は物凄い悪天候だったため
山頂に着いた時には山小屋の人たちが
「すぐに下山してくださーい!
さらに天候が悪化します!
すぐに下山してくださーい!!」
と叫んでいたくらいでした。

格闘技をやっていたこともあり、
体脂肪率が一桁の夫は
悪天候の富士山頂が寒すぎて
死にそうになってました。

一方体脂肪率が身体の半分くらい占めてる私は、
登山というとてつもない運動をしていたため
山頂では暑くて仕方がなく一枚脱ごうかというくらいでした。

そんなこんなで温度差をうめて見事ゴールイン。

富士登山翌月には、妊娠まで発覚しました。

もう、本当に嬉しくて仕方がなかったですね。

妊婦になりましたが、仕事のペースはほぼ変わらずでした。
強いて言うなら、接待は一切なくしました。

ちょうど決算時期で忙しかったので、
接待どころではなかったのですが。

決算真っ只中とつわり絶頂期が重なり、
もうベッドにパソコン持って行き
寝ながらなんとか対応していた感じでした。

お腹が大きくなっても資金調達をしていたので、
打ち合わせ相手が驚いていました。

愛する子供をお腹に入れながらお仕事できることを
心から幸せに感じてました。

そして予定日当日、特に何もありませんでした(笑)

翌日くらいから微弱陣痛が続くも本陣痛には繋がらず、
近所の河川敷の階段を夜中の12時に上ったり下りたりしてました。

そして、何分間隔かずっと計り、
やっと7分間隔になってくれたので病院へ連絡しました。

到着したのは朝5時頃。

そこから廊下を歩かされ、お風呂に入らされ…
なんか色々させられたけどお産が進まず。。

結局どんどん偉い先生、さらに偉い先生と診察されていき
最終的に緊急帝王切開となってしまいました。

理由は、赤ちゃんがお腹の中で大きくなりすぎて
出てこれなくなってるとのこと。

産まれた時、息子は4,008gでした。

私は身長152cmくらいと意外と小さめです。
骨盤の大きさから言っても、
出て来れるサイズを超えていたみたいですね。

手術中は、まさかの出血多量で、何度か気絶しました。

立ち合い出産で隣にいた旦那が、
死んだかと思い泣いてしまったほどでした(汗)

術後も手術熱や高血圧で大変な目にあい、
なかなか波乱に満ちた出産でした。

しかし、そんな中でも部下からの連絡に
返信するという感じでした。

産後の強烈な忙しさを体験していたある日、
ビジネスパートナーから会社を閉じたいと言われました。

え?

と言う感じですよね。

理由を聞くと、
「今いるお客さんが嫌で仕方ない」とのこと。

だから一回会社畳んで、
また新しく立ち上げてゼロから作りたいと…。

もうツッコミどころが満載過ぎて
何から言っていいのかわからなかったけど
パートナーの決心は堅く
結局強引に会社を閉じることになってしまいました。

社員さん達は、知り合いの会社にジョインしました。

なんか、せっかく創りあげてきたものを
壊されるような感覚でした。

社員同士仲良かったので、私が社員たちを引き取って、
経営できたら良かったのだろうけど、
私は産後の肥立ちが悪く、あまり動けない状況でした。

自力で立つのが困難な時もあったくらい、
産後の肥立ちが悪く、何とか仕事をこなしてる形でした。

社員たちを引き取れなかったのは、今でも悔やむ部分ですね。

IPO準備へ参画

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息子の保育園入園と共に
IPO準備中の会社へ取締役CFOとして参画しました。

証券会社とのやりとり、監査法人とのやり取り、
ベンチャーキャピタルとのやりとり…
楽しいこといっぱいでしたね。

資金調達のためのプレゼンを
何回やったか数えられないほどです。

事業計画書について真剣に考えまくったのもこの時、
KGIやKPIの設定、予実管理を頑張ったのもこの時、
あまりにも酷いワークフローだったので
業務改善も相当頑張りました。

マーケティングについては、
ここにいる時に学んだ部分が多いです。

社内にCMOがいなかったこともあり、
外部のプロを入れていた時に得た
マーケティングの知識は大きいです。

同じ取締役の一人はトルコ人、もう一人は中国人。

一緒にアナリティクスの数値を検証していた社員さんはジャマイカ人。

外注さんも外国が多く、
SEO担当はトルコで本も出されてるほどの有名な方でした。

英語できないのに、よく頑張ってたなって思ってます。

前の会社にいた時、
セブにプチ留学していた時期があったのですが、
短期だと全然話せるようにならないですね(汗)

CSVというSDGsが進められる昨今にピッタリの
ビジネスモデルだったことも非常に勉強になりました。

楽しくお仕事させてもらってましたが、
入社後1年で独立することになります。

独立の経緯については別noteにも以前書きましたが、
今は公開してないのでこちらに書かせていただきますね。

独立のきっかけ

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なんで独立したの!?

かなりよく聞かれました。

激務で身体がしんどかったことは否めません。

しかし、具体的な数字を出すと色々アレなので
一般的な数字で言うと、
IPOして取締役CFOが得られるキャピタルゲインは
1億近くと言われています。

実際の持ち株数、PERによって大きく変わりますが、
細かくここで計算方法を言及したいわけではなく、
なぜ1億近くのキャピタルゲインを蹴って独立したのか?
という話をここではしたいと思います。

IPO準備自体は結構楽しく、
色々なスキルを身に着ける事が出来ました。

ここでスキルを積み上げて、
将来どうしようかなぁ?と考えた時、
最終的には、独立して経営者をサポートするような
人間になりたいと思っていました。

乳児がいるにも関わらず、
徹夜を強いられるような仕事をしていた日々の中で、
この忙しさ、本当に今私がやらなきゃいけないことなのか?
と思うようになりました。

子供が目の前にいるにも関わらず、
パソコンを開いて急いで返答することを強いられることに疑問を感じ、
私が最終的に落ち着きたいところが「経営者サポート」だとしたら、

その最終ゴールにたどり着くまでに何が必要で何が不要だろう?
と考えました。

例えば、私の場合は今積み上げているものが

「IPO経験者」という実績、

「1億円」という資産だった場合、

それらがないと本当にゴールには行けないのか?
という問いを自分自身に投げました。

答えは「NO」

経験、お金はあって困るものではないです。

ただし、そこで犠牲となるものの方が私には遥かに大きかったです。

そして、スタートアップにずっと携わっていたいか?というと、
全くそれはなかったので、IPO経験者という肩書きは
なくても良いという結論に至りました。

更に、仮に3年後にキャピタルゲインで1億円得ることができたとして、
わかりやすく計算するために私の年収が500万だったとしたら

3年間での収入は合計115,000,000円。

1年にすると、3,800万円くらいです。

これ、自分一人で稼げるんじゃないか?
と思ったのがお金面での最終的な結論です。

もちろん、給料という形ではなく、
売上という形にはなりますが、
給料として大きな額を得るよりも
自分自身でその額の売上を立てる力を身に着けた方が
この令和の時代でお役に立てる人間になれると思いました。

更に言うと、IPOができるかできないかという問題は、
あまりにも自分でコントロールできない部分が大きすぎます。

今は自分がコントロールできることに一旦注力して
大きな力を発揮していこうと決心し独立しました。

独立後

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最初はコンサル、ビジネスコーチング、
講師というような形で独立し収益を得てました。

ありがたいことに、お声がけいただいて
リアルセミナーに登壇させていただく機会も増えたのですが、
一つ問題に気付きました。

それは、息子が熱を出した時に、
登壇できなくなる可能性があること。

夫は私の独立を応援してくれる雰囲気でしたが、
「セミナーの日は、もしお迎え要請があったらお願いできる?」
と聞くと、「俺は会社員だから無理だよ。」と言われてしまいました。

仕方ないことなのだと思う。

じゃあ、録画版で配信できるような形にしようと始めたのが
オンラインビジネスサロンでした。

別でセミナーを販売したりもしてました。

営業活動もしてましたが、
息子がいきなり熱を出すというような事態が何度かあり、
心が折れてしまいそうになってました。

時間をとってくれた相手に申し訳なくて。

ビジネスコーチングをしていた中で、
特に私の話で食いつかれた部分が3つありました。

それは、

✓潜在能力を引き出す
✓マーケティングの知識
✓財務の知識

潜在能力を引き出す部分については、
コーチングなので当たり前と言えば当たり前。

積極的に営業できなくなった私が
収益を上げるために頑張ったのが
Webマーケティングでした。

色々な記事等を見た知人から
マーケティング手伝って欲しいと要望が増え
2019年12月に始めたのが「オンライン広報部」

驚くほど順調に進み、
次は今までの経験を活かし
財務も手伝って欲しいという話が来て
2020年1月に始めたのが「オンライン経理部」

さらに両方お願いしたいと言われ
2020年4月から始めたのが「オンライン管理部」です。

コロナ禍となり、世の中が一斉に
オンラインへシフトしたことが
追い風となったと言っても過言ではありません。

保育園に通っていた息子を一旦退園させ、
今は子連れでお仕事しております。

以前は「私は一生子どもを持つことできないのかなぁ?」と
辛い日々を送っていたこともありました。

来年の幼稚園入園までの1年間はママとベッタリ一緒、
神様がくれた子どもとの時間のギフトだと感じております。

大変さもかなりありますが、充実した毎日に
心より感謝感謝でございます。


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