江國香織作品のなかにみる愛情のかたち

大学生のときに課題で書いた書評?人物評?エッセイ?のようなもの


 江國香織は、一九六四年に東京で生まれた。一九八七年『草之丞の話』で「小さな童話」大賞、一九八九年『409ラドクリフ』でフェミナ賞、一九九二年に『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』で紫式部文学賞、一九九八年『ぼくの小鳥ちゃん』で路傍の石文学賞、二〇〇二年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞、二〇〇四年『号泣する準備はできていた』で直木賞を受賞。他作品に『神様のボート』『東京タワー』『間宮兄弟』『がらくた』『左岸』などがあり、絵本の翻訳も多い。

 このように紹介される江國香織であるが、では彼女の小説の魅力とはなんだろうか。文体、ストーリー、人物、或いは食べ物の描写。様々なものがあげられる。そのなかでも、江國香織の書く作品に共通し読者を魅了するものは、やはり〈愛〉ではないかと思う。恋愛であったり、家族のつながりであったり、ペットと飼い主であったり、形は違うけれど、彼女の書く小説ではそういうものが物語の中心部分に存在している。

 〈愛〉と言うと、どうしても気恥かしくチープに感じてしまうが、他に総括して表現する言葉が見当たらないので使うことにする。恋愛小説と言われる小説を特に好んで読んではこなかったので、語弊もあるかもしれない。それでも、私は江國作品をつくっているのは交錯する〈愛〉であると思うのだ。

 江國作品で度肝を抜かれたのは、『薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木』という恋愛小説だった。主婦、OL、モデル、編集者など、総勢9人の女性たちが日常のなかで織りなしていく恋愛の話である。浮気や不倫があちらこちらで起きていて、そのうえでひとりひとりに少しずつ焦点を当てるので、読者には、9人の女性、それから男性たちそれぞれの気持ちがわかってしまう。このようなストーリーの小説は他にもたくさんあるのかもしれないが、私はこの恋愛という〈愛〉の展開に驚いてしまった。

 江國作品のなかでも、個人的に気に入っている『流しのしたの骨』と『きらきらひかる』という2作品に焦点を当てて考えてみようと思う。

『流しのしたの骨』

 『流しのしたの骨』という小説は、宮坂家の三女、一九歳の〈こと子〉の視点で描かれた、家族の話である。こと子には作中で〈深町直人〉という恋人が出来るが、基本的に中心にあるのは宮坂家の家族愛だ。それにしては特別おおきな事件も起こらず、誰かが強く自覚しての愛情ではないのだが、互いを大切に想いやっている様子は小説中で感じられる。高校を卒業し、大学には行かず何もせず、趣味が夜の散歩である私こと子。規律を重んじ、口少ないながらも家族思いの父。詩人で、生活に様々なこだわりを持つ母。おっとりとしていて、それでもってとても頑固な長女そよちゃん。妙ちきりんで、人に何かしてあげるのが好きな次女しま子ちゃん。笑顔が健やかで、「小さな弟」である中学生の律。六人家族の宮坂家の晩秋から春までを描いた小説である。どの家族もひとつとして同じ家族はない。読み始めた当初は不思議な感覚を覚え、変わった家族だなとだけ思った。しかし彼らは彼らの生活があり、家族のなかのしきたりや関係は、彼らにとっては何一つとして不思議なものではないのだ。

〈母〉は、〈父〉が会社に出かけてから化粧をし、父が帰宅する前に化粧を落とす。父は必ず帰る前に会社から電話をするので、母はそれを受けてから化粧を落とし、父を迎えるのだ。

 まず、そういう内容で始まる。長女の〈そよちゃん〉は、去年の秋の晴れた美しい日にお嫁にいった。マンションの一室はきれいに掃除されていて、実家に帰るときにはお菓子を焼いてくる。しかしそよちゃんは突然、「苦しくなった」と夫と距離を置き、そして離婚した。そのあとで、妊娠していることを家族に告げた。弟妹にはひとりずつ明かしていき味方につけ、両親も驚きはしたが受け入れ、『流しのしたの骨』という小説は家族の記念写真を撮りに写真屋さんへ行くシーンで終わる。

 小説のなかでは、次女の〈しま子ちゃん〉が友人の赤ちゃんを育てるのだと夕食の席で言いだしたり、弟の〈律〉がフィギュアの制作で金銭をやり取りしたと言って母が担任に呼び出されたりといった事件が起こる。しかしそのどれもが一家を揺らがすことはなく、彼らは互いのことを知っているからこそ、それらを各々納得し受け入れていく。家族のルールと関係に基づいて、穏やかに日常が続いていくのだ。すこし変わった家族ではあるかもしれないが、彼らのなかには確かに家族への愛情が感じられる。感動的とは言わないが、読んでいると折々に感じられるそれに、読者は心温まり、時には切なくなるのではないだろうか。

 何事をも静かに受け入れてしまえる、というような愛情が江國作品には多くあるように思う。

『きらきらひかる』

 『きらきらひかる』は、江國作品のなかでも特徴的な小説であると思う。最近、新潮文庫から限定スペシャルカバー版が出版されたので、改めて購入してしまった。アル中で情緒不安定な妻〈笑子〉。ゲイセクシュアルで〈紺〉という年下の恋人がいる夫〈睦月〉。ふたりは、お互いの事情を知ったうえで結婚した。この時点で、『流しのしたの骨』で述べた、受け入れるタイプの愛情があるように思える。

 笑子と睦月の間にも愛情はある。睦月が紺と交わすような愛情ではないにしろ、結婚し生活を共にする、互いにとって特別な愛情があるのだ。また、紺と睦月の間には恋愛関係が存在する。出会いがあり、培ってきた関係があるのだ。笑子はそれを好ましく思っている。

〈笑子さんの相談っていうのはつまり、言いにくいんだけどその、睦月の精子と紺の精子をさ、あらかじめ試験管でまぜて受精することは可能かって。そうすれば、その、みんなの子供になるからって〉

 というシーンがある。柿井という友人の医者に笑子が相談したのだ。そしてそれを聞いた睦月は唖然とし、紺は〈そんな風に相手を追い詰めるんなら、睦月は笑子ちゃんと結婚なんかするべきじゃなかったんだよ〉と感情的に告げる。

 私には、これがこの小説のなかの感情を強く表している場面に思える。笑子、睦月、紺の関係は傍から見ればひどく奇妙だ。しかしそれでも、彼らのなかの誰もが誰もに愛情を抱いているように思えるのだ。

 江國香織の作品のなかで大多数を占める男女の恋愛小説ではなく、家族愛と一風変わった恋愛小説を例に挙げてしまったが、どれもに江國作品に共通する〈愛〉を感じることができるのではないかと思う。形はそれぞれだが、私たち読者は、彼女の描く小説が持つ〈愛〉に強く惹かれるのではないだろうか。

 小説のなかで、愛の言葉やそれに準ずるような言葉がはっきりと出てくることは少ない。しかし、私たちにはそれが愛情をもったものであるとしっかりと伝わるのだ。

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