愛情のありどころ

2015/9/19に発行したオリジナル短編集「てあしはふたつある」より

「短歌からの連想掌編」

***

指をさす、わたしのためのあなたが王失うならば必ず追うから
 
 
 生まれの卑しいわたしだったので、すれ違い様に微笑みを浮かべたあなたが何よりも美しく見えた。その笑みがわたしに向けられたものでなかったとしても、わたしを透かした先の柔らかな体を持った華やかな存在を愛でたものだったとしても、一瞬の景色はわたしのなかで何よりも美しく輝いていた。その瞬間から、わたしはあなたのことを王だと決めた。王とは平等であって、わたしのことを見ていて、それでもって見ていない。王とは揺らぎなく、だからわたしはあなたを指針として生きていける。誰にも知られることなく、目を閉じて心のなかであなたのことを指さした。わたしはもう決してあなたをひとりにはしない。


ひた走る背しか追えずに今もまだ前ばかりゆくあなたが好きだ
背を撫でて飼い馴らせないお前ならどこまでもゆけ見えなくなるまで
 
 
 あなたはいつだって前を行っている。決して追いつけない差がそこにはある。大切にはしてくれたけれど、あなたは結局ひとりでどこまででも行けてしまうひとだから。一緒に歩を揃えて、なんて言ったら二度と手を差し伸べてはくれないひとだから。
「強くなれ」
 ありきたりの激励のセリフだけれど、あなたが言うから言葉はその効力を発揮する。強いあなたに強くなれなんて言われたら、追いつくためにはもうそうするしかない。ひとりでも立っていられるように、ひとりでも走っていけるように。決して追い抜けない差を別のもので埋められるように。あなたの走った軌跡を辿って、いつの日か追い抜けるように。
 じゃあ、と言ってあなたはきっぱりと背を向けた。まだ冷たい風の吹く日のことだった。
 

 
 
 獣なら君こそまさに野生の火青葉燃やして前だけをゆけ
 
 
 長いこと見てきたものの、相変わらず掴めないやつだ。猫のように気分屋のくせに、僧侶かと思うほどに誰よりもストイックで、まあだからこそ面白くて応援したくもなるのだけど。
 怪我をしてから、生きていくうえでの楽しみを半分以上失ったといっても過言ではなかった。それを救ってくれたというか、四分の一くらいにまで軽減してくれたのがあいつだった。
 見てろ、と言われた。
 それだけだったけど、あいつに言われたら仕方がなかった。昔からガキ大将でみんなのヒーローだったあいつは、こんな歳になってまでひとのヒーローになろうとする。
 悔しくないかと問われれば、悔しくないはずがないと答えて問うた相手を殴り飛ばしたくもなる。
 だからあいつは決してそんなことを聞かない。もう十数年一緒にいるのだから地雷くらいわかるだろうという話だ。けっこう短気な自覚があるので、あいつは滅多なことで挑発をしてこない。面倒だと思われているのは重々承知で、あいつも面倒だと思っているのを隠そうともしない。
 あいつが駆けている姿を見ていると、心臓が逸って一緒に走り出したくなる。もうかなわないのが情けなかった。
 見てろ、と言った分、あいつはますますストイックに打ち込むようになった。気まぐれさは相変わらずだったけれど、やる気になったときの集中力が凄まじい。周りのやつらも遠慮してしまって、グラウンドはたったひとり、あいつのものだけになった。
 あいつは何かを背負おうとしたわけではないのだと思う。ただ、見てろと言ったからには見せてやろうと思っているだけだ。だから申し訳なさなんかは一切感じなかった。あいつが駆けている姿を、心臓を逸らせながらただ見ていた。軽くジャンプしたりならしたり、足の感覚を確かめる様子をただ見ていた。
 駆け抜けるあいつは前だけしか見ていなくて、たぶん、走っている最中は誰かに言った言葉なんて欠片も心を掠めやしないのだろう。それでいいと思う。それだからこそ、あいつは速い。
 火のようだ。ウォーミングアップを終えて本格的に走り出したあいつを見て、ふとそう思った。周りのものすべてを燃やし尽くすような、青い火のようだった。
 いつの間にか日も落ちて、ライトアップされたグラウンドであいつはひとりぽつんと立っていた。
「見てるか」
 問われた言葉への答えは決まっていた。
「見てるよ」
 
 


かたい手と柔い心根知っている今夜あなたを部屋に呼びたい
 
 
 手を握ると、ちょっと照れくさそうにはにかむその顔が好きだ。何をしているときよりもいちばん愛らしく表情を変える。だから何度だってその大きくて骨ばった手を握りたくなる。
 真冬の夜道を歩いているとき、ふと思い立ってあなたの手を握りポケットにしまってみせた。わたしのポケットはあなたの手にはすこしちいさくて窮屈そうだったけれど、あなたは文句を言わずにただひたすらにかたい手をしていた。
 胸がぎゅっとなって、気づけば今夜あなたを部屋に呼びたいと呟いていた。あなたは目を丸くして、わたしをまじまじと見た。わたしはまっすぐに見返し、交錯した視線を先に逸らしたのはあなただった。歩は緩まず、わたしたちは前を向いて真冬の夜道を歩き続けた。明かりのついていない、わたしの部屋はもうすぐそこだ。
 
 


 
のうのうと抜かす言葉がお前の棘誰が痛むか知らんくせして
知らんふり吐いた言葉がわたしの愛あなたがずっと気づかんとして
 
 
 この人を見ているとついつい心にもないことを口にしてしまう。拳いくつか分低い頭の位置、見上げてくる眼差しは鋭く、こちらのことを全身で警戒しているのが伝わってくる。そういうところがますますこちらの口を滑らせる要因なのに、気づかないのか、純真そうな黒目は上目遣いで見上げてくる。
 あまりにも思ってもみないことばかり口をついて出るので、自分でも驚くことがないとは言えなかった。口にしてしまった後で、お互いに目を丸くして見つめあったこともある。あるとき気づいた。実に間抜けな話だけれど、どうやらわたしはこの人のことが好きらしい。
 好きな子ほどいじめたくなる、というのと、素直になれない恋心がそれはもうややこしく錯綜して、結果としてこのように嫌われる言葉ばかりを吐いている。やめようと思ったことがないではない。それでもやめられないのは、冷たい言葉をかけるたび、この人がわたしを意識するからだ。
 いつかに聞いた、この人の本音。どうやらこの人はわたしのことが非常に苦手らしい。いつも冷たいことを言われるから、口惜しくてたまらないそうだ。それでもわたしは幾ばくかのショックを受けたきり、翌日にはまた同じようにからかう言葉を投げかけていた。
 わたしはこの人の睨みつける嫌悪と困惑の眼差しを知らんふりして、こんがらがって結果裏返った愛情を吐き続ける。あなたがずっと気づかんとして。
 そうは言っても、いつの日か気づいてくれたらいいなと思わずにはいられなかった。なんせひとの時間は短いのだから。



夢に見た君の腕だけ道づれにままならないと知っていながら
夢を見て泣いていた子は今は亡いあるのはそうだ哀れな男
人のふり出来損ないの君のせいあるのはそうだ哀れな男


 ずっと好きだった。初めて君と出会ったとき、もうこれ以上ひとを愛することはできないだろうというくらいの、まさに滑り落ちるような恋をした。君が何をしても愛おしくて、君が存在するという事実が幸福だった。君の笑顔はどんな女優よりも美しく、君の声は世界中のどんな音よりも優しかった。手足も、肌も、髪も、何もかもがきらきらと宝石のようだった。君をずっと見ていた。いちばん近くていちばん遠い、君の隣でずっと見ていた。
 君は今日、真っ白な布に埋もれて去っていく。幼い頃に繋いだ手はとうに離され、今はもうただ二度と取れないのだということばかりを考えた。優しい手だった。柔らかく、ほっそりとした腕だった。ひとつのしみもない真っ白な布を纏った君の腕は、近くとも遠くとも美しかった。こわい夢を見て泣いたとき、頭を撫でてくれた愛情深い手は、腕は、君は、今日この日をもって、ほかの男のものになる。
 祝福の声音は震えていなかっただろうか。いつも隣にいた君を、よろしくと言って微笑みとともに手放せただろうか。
 ずっと、ずっと好きだった。本当に、何も言えないくらいに好きだった。
 あたたかい涙をこぼしながら、世界一惨めな男の背に手を回した君は、きっと今、この世でいちばん美しい。ありがとう、ありがとう。そう笑いぽろぽろと涙をこぼす君は、背に返されない手を不思議に思うこともなく、一方的にしみひとつない愛情を差し出してくる。残酷なものほど美しいから、君はやはり世界でいちばん美しい。頬を伝い落ちる涙を拭わないまま、君はそっと離れて行った。名残惜しげに二度振り返り、傍らの腕を取って、華奢な背中を見せて歩んで行った。
 そうしてやっと、涙が溢れて止まらなかった。一生に一度の恋だった。口に出せない愛だった。好きだった。しあわせだと笑う君のその顔は、涙は、与えてはあげられないものだった。二度と口には出せないのに、一度も音になることのない愛の言葉だった。
 美しい君だった。この恋は今日をもって息の根を止める。そうして再び戻ることはないだろう。好きだった。最後になっても声には出せない恋だった。
 
 


 
足のある、人のふりした亡霊なら明朝ひとりわたしに会いに


 愛したひとが死んだので、どうして置いていかれたのかを三日三晩考えた。その末に、思い至った答えが「会いに来てくれれば許してあげる」というものだった。わたしのことを連れて行かなかったのにはきちんとした説明すべき理由があって、きっと釈明するために現れるだろうとわたしはそう思った。
 だからそれから七日間待ち続けた。七日目の夜、眠る前にわたしは部屋のなかで囁いた。ふたりで眠っていたベッドはひどく広く、夏だというのに布団は冷えていた。
 明日の朝、目が覚めたときに隣にいなければ、わたしはあなたのことを忘れてしまう気がする。
 半分は脅しのようなものだったけれど、その実半分は本当のことだった。わたしにはわたしの生活があり、わたしはもうあなたがいない生活を送っていかなければならなかったからだ。
 あなたは死んでしまったのでそうもないだろうけれど、わたしはあなたのことだけを考え待ち続けるわけにはいかなかった。明日の朝、目が覚めたらきっとあなたを忘れてしまう。そうしないと、わたしはあまりにもさみしいのだ。
 眠れなかったのは三日間だけで、あとはあなたを待ち眠った。そして朝になったらあなたがいたときのように起き出し、あなたがいたときのように食事をし、支度をし、出かけて行っていた。
 それももう、明日で終わりだ。明日の朝、目が覚めたときにあなたが隣に現れなければ、わたしはあなたのことを忘れてしまう気がする。あなたがわたしを置いていったように、わたしもあなたを記憶のなかに置いていく。
 冷たい布団はあたたまることもなく、わたしは氷のような手足で眠りについた。

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