零と一のあいだ
大学の課題で書いた「異界譚」です。
僕は目を閉じたまま、あたたかくてゆったりした波に身を委ねていた。波は時折、丸めた僕の手足をちゃぷんちゃぷんと揺らした。全身隈なく浸かりきっていたって、決して溺れることはなかった。
ここはどこだろう。気がついたらここにいた。なぜここにいるのか経緯はわからないながら、不安な思いは何一つなかった。僕を包んで離さないのはただ安寧だけで、ここはやさしい気持ちであふれているような気がした。
五感のうち、視界や嗅覚、味覚はおそらく遮断されている。その分、聴覚や触覚は僕を力強く支えた。
僕のほかに、もう一人、誰かがいるのはわかっていた。姿形は見えずとも、彼はきっと僕と似ている。口もきかないし肌に触れてもいないが、「彼女」でないということも断言できた。何をするにもひとりで平気な僕は、この心地よい場所を独り占めできないことについて、ほんの少しだけ不満に思った。なんせここは本当にすばらしい場所なのだ。
水の音にまじって、ぼおおーっと何か激しい流れが遠くのほうから聞こえていた。それから、僕らの身体を芯からふるわせるような、どん、どん、という重い音。なにか演奏にしては規則性もなく荒々しい響き方だった。しかし僕はそれらを感じているとひどく落ち着いた。僕のなかにも響いている、まるでそれは鼓動や血液の流れのようだった。
懐かしいのかもしれない。かつての僕は確かにここに居た。
はっきりとした記憶をたぐろうとしても、どうしても靄がかかったみたいに思い出せない。思い出さなくてもいいじゃないか。そう、頭のどこかで僕の声がした。思い出したところで何かが変わるのか、変わりはしないだろう。これも僕の声だ。
それでも、思い出すことをやめれば静かに脳裏によみがえる。おそらくは僕のかつての姿なのだろう。
いつかの僕は薄暗い場所から空を見上げていた。空はひどく淀んでいた。醜い、吐き気さえ催すような空だ。汚染されきった空気は氷みたいに冷たく、僕のむき出しの頬はこわばったままだ。何かから逃げていた。そして何かを追ってもいた。僕の心は憤怒で満ちていて、心のままに手足を動かしているのだった。黒い鉄の塊を手に持つ僕はただそれだけを頼りに目を凝らしていた。それの使い方は知っているのに、僕の手の中にあるそれはただのお守りにすぎなかった。
僕はここに居る限り、すべてのものから守られている。隣の彼もまた然り。なにも心配しないでいい。
知らず知らずのうちに僕の身体は維持されていた。維持され、感覚でしか判断はできないが、成長しているのではないだろうか。窮屈と感じはしないのに、かすかな圧迫感はあった。彼との距離も縮まっている。
じきに僕らはここを出るのではないか。ふと思った。思ったというより、感じたというほうが近い。呼ばれているような気がした。僕らはしきりに呼びかけられていて、慈しまれていた。等しく。
呼ばれた先にはどんな世界が広がっているのだろう。何が待ち受けているのだろう。もしかしたらここで感じる安寧は二度と得られないかもしれない。ここは僕らを決して害うことがない。呼び声に慈愛を感じるのも確かではあるけれど、ここから出た場合の安全は保証されていない、そんな気がする。それでも僕らは呼ばれているのだ。
僕らは呼ばれていると気づいたとき、ほとんど反射のように反応を返してしまっていた。僕は足を動かした。何か柔らかいものを蹴った。びくともしなかったが、弾力があるのか僕の足はほんの少し震えただけで無傷であった。
じきに僕はひとり死ぬのではないか。憤怒の傍ら、常に脅かすものがあった。それは逃げる足を時折鈍らせ、追う意思を挫こうとした。爪はひび割れ血みどろだった。血は黒く、体中にこびりついていた。痛まない部位はひとつもなかった。生きている間の僕の目は始終うつろだった。
君は一体誰なの。ここから出る前に聞いてみたいと思ったが、今の僕は口がきけなかった。もちろん彼も口がきけないはずだ。あたたかい波にゆったり揺られながら、僕らはお互いを意識しているのにはっきりと輪郭を知ることはない。やさしい。僕らは守られている。
どのくらいここにいるのか、時間の感覚は一切なかった。まぶたはおりたままだし、変わらず身体に響くのはあの低い音たちだけだ。変わっていくのは感じる圧迫感や手足ののびていく広がっていく感覚であり、また、傍らの彼も成長しているということだ。
ここから出たら僕らはどうなるのだろう。甘い声で切なく僕らを呼ぶのは誰なのだろう、僕らを傷つけはしないのだろうか。ここは僕らの安寧の地なのだ。出なければならない、出るべきだ。そう僕の身体も言っているのに、僕は実際すこし躊躇っていた。
突然、隣の彼が震え始めた。震える、という表現はいささかやさしい。彼は暴れていた。きっと彼は呼び声にこたえたくてたまらなくなったのだ。僕は暴れる彼に殴られたり蹴られたりするのではないかと危惧したが、次の瞬間にはそれでもいいかもしれないと考え直した。もしも僕が彼に傷つけられることがあっても、僕は彼を責めたりしない。僕は彼に続いて暴れ始めた。
僕はなんのために生きていたのだろう。追いつく前に見つかってしまった。痛くはなかった。どこもかしこも痛かったのでわからなかっただけかもしれない。目を閉じれば真っ暗になった。
「あああああああ」
体中を覆った強い光に、僕は思わず叫び声をあげていた。引きずり出された世界では、すでに自分のもののほかに、同じような叫び声が響き渡っていた。まさしく片割れの彼らしい威勢の良い声だった。
「僕はたぶん、小さい頃は前世の自分を覚えていたんだと思うな」
「きっと僕も、ママのお腹のなかで君と一緒に過ごしたことを覚えていたと思うよ」
もうすっかり覚えていないけれど。
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