男がふたり、女がふたり

大学の課題の「表層にとどまる(感情表現などを極力入れないようにする)」手法で書いた掌編です。闘牛に狂っていた時期に書いたものですね。


 女は赤いワンピースを着ていた。肩紐の頼りなさと、金魚のようなドレープが彼女の華奢さを強調している。栗色の巻き毛を無造作に後ろでまとめていて、後れ毛が日に焼けた首にかかっていた。薄汚れた座布団の上に尻を置き、女は足を組んでいた。

 男の手から座布団を奪い、彼の妻が女の隣に大きな尻を並べた。女の履いている靴は細く鋭いヒールを持っていて、妻の靴は彼女と同じ色のメリージェーン、男はくすんだオリーブグリーンの革靴を履いていた。

 太陽は天頂にあり、いくつかの柵越しに見える砂場を白く照らしている。拭ってもきりのない汗をまた拭うためにポケットからハンカチを取り出し、男は首筋、鼻、額へと順に押し付けた。トランペットが高らかに響き渡り、観客は一斉に視線を砂場へと向けた。

「ああ、出てきた。ミゲル・テラデージャスよ。怪我はすっかり治ったのかしらね」

 日陰席、それも防壁のすぐ近くの席からは、グラスが無くとも闘牛士たちの顔がよく見えた。ミゲル・テラデージャスは今日が復帰戦だった。ちょうどひと月前、フランスのニーム円形闘技場で太腿を角にやられた。彼はまだ見習いから昇格したばかりの若手だが、顔がいいので婦人方からの支持は大層なものだった。

「ねえちょっと、使ったハンカチをポケットに戻すのはやめて」

「どうして。使ったら仕舞わなくちゃ。赤ん坊でも知ってるさ」

「汚いとは思わないの? そのうえポケットまで汚すのよ。洗うのは誰なのよ?」

「汚いって、汗を拭いただけじゃないか! あいつらみたいに血にまみれてるわけじゃないんだぞ」

「あなた、本当に、なんてことを言うの!」

 一度瞬きをした後、いいわ、と妻は言った。

「これからは自分で洗って。私は、私とクンの分だけ洗うわ」

 男は広い砂場へと向き直った。ミゲル・テラデージャスは、砂場を囲う頑丈な柵から一頭目の闘牛を眺めている。防具を纏った馬に跨がり、ピカドールが一度、二度と闘牛の首筋に刃を落としたところだった。闘牛の頭が沈み、前足が折れそうになった。客席からはブーイングが飛ぶ。

 雲のない空は真っ青だった。日差しが強いが、男はサングラスをかけていなかった。男の妻の顔には白粉が溶けて玉のような汗が浮いていた。

「あの子、全然駄目ね」

「最初からわかっていたのに、ピカがよくなかった。彼もかわいそうにね」

「ミゲルだったらどうしたかしら。彼、うまいんでしょう?」

「うまいもなにも、これは牛がよくないんだよ。ミゲルでも誰でも一緒さ」

「でも前に見たときはハンカチを振ったわ」

 妻は刺繍の入った白いハンカチを膝に広げてみせた。その隣の女は足を組み替えたが、ちょうど膝ほどの丈のワンピースは汗でぴったりと張りついていた。

「君はきっと周りに合わせるべきだったね」
 男は再び闘牛に目を戻した。牛はパセの途中に二度も躓き、その度に闘牛場は溜め息に満ちた。腕を組むと、隣の恰幅のいい男に肘がぶつかった。

 剣は一度で心臓まで到達し、闘牛はゆっくりと膝を折り畳みやがて事切れた。妻は男に「どうだったの」と訊いた。

「誰もハンカチは振ってない。新聞にはシレンシオと書かれるだろうね」

 闘牛場をぐるりと見渡し、「その通りね」と呟きながら妻は頷いた。

「血がたくさん出るのね」

「僕の汗とどっちが汚いと思う?」

「ねえ、ずっと思ってたけど、あなたってまったく面白くないわ」

 男の隣の親父は「失礼、」と言って咳払いをし、妻の向こうの女はまた足を組み替えた。ほっそりとした腕にはアクセサリーはなく、そこから伸びる指先は真っ赤なルージュの引かれた唇に触れていた。

 ミゲル・テラデージャスが姿を現すと、妻は尻をもぞもぞと動かし居住まいを正した。入場のときにミゲル・テラデージャスが身につけていた上着は派手な花柄が縫い取ってあり、妻はそれを「少し少女趣味ね」と言っていた。深緑に金糸の衣装は彼をすっきりと見せているが、数キロあるムレタを姿勢良く振らなければならない闘牛士は、見た目よりもずっと鍛えられている。

「ああ彼すてきね。あなたもそう思うでしょう?」
 妻が隣の女にそう言うと、彼女は目にかかった前髪を指先に巻き付けながら、「そうね」と答えた。ファエナの場で、ミゲル・テラデージャスがカポテを靡かせている。一連のパセが終わり、彼は闘牛に背を向けて見栄を切った。女は拍手をし、「闘牛士じゃなければ、もっとすてきだと思うわ」と微笑んだ。

「闘牛が嫌いなのにチケットを買うの? 誰かの代わりに見に来たとか?」

 女の声は華奢な身体に似合わず、妻の甲高いそれよりも幾ばくか低かった。

「好きよ。ペーニャにも入ってるわ。今年はサン・イシドロのアボノを買ったの。ソル席だったけど、最高だったわ」

 女の言葉に、妻は黙り込んだ。女はまた足を組み、尖ったつま先をゆらゆらと揺らしている。女が隣の客にマドリッドでの闘牛について訊かれている間、妻は男に「彼女は何て言ってたの」と顔を向けた。

「すごく闘牛が好きってことだよ。いや、驚いたな。最近の若い女の子って闘牛なんて見ないよ。そういえばクンの恋人だってサッカーのチケットしか喜ばないって言ってたな」

「あの女の話はやめてちょうだい。あんな我侭な女にクンは勿体ないわ。私はね。初めて顔を見たときから嫌な女だってわかってた。クンは優しすぎるのよ」

「サン・イシドロ祭のアボノなんて滅多に取れないよ。すごいな……」

 聞いてるの、と妻は言ったが、男はそれに「もちろん聞いてたさ」と答えた。

「ねえ闘牛好きのかわいいお嬢さん。ミゲル・テラデージャスは今日、耳をいくつ貰えるかな?」
 ミゲル・テラデージャスは、闘牛との距離が近い分、怪我をする可能性も高かった。女は彼から視線を外さないまま、「四枚よ。尻尾を付けてもいいわ」と言った。

「いいね。復帰戦だから気合いも入ってるだろうし、期待しておこう」

 女はハンカチを持っていない。

「あなたミゲルの試合を見たことあるの?」

「当然、あるわ。でも好きじゃない」

 陽はまだ高くにあり、女も髪を首や頬に張りかせている。男は湿ったハンカチを額に触れさせようとしてやめた。汗の滴が眉を伝って、するりと輪郭を滑り落ちた。

「怪我が多いの。そのうち角に心臓をひと突きにされるのね」

「縁起でもないこと言わないで」

 妻はまた男へと顔を向け、「怪我が多いって、ミゲルは闘牛が下手なの?」と訊いた。男は「そういうスタイルだから怪我が多いだけで、下手じゃない」と答えた。

「勇気のないムレタよりは見ていて興奮するよ」

 ミゲル・テラデージャスは剣を持ち替えた。持ち時間の十五分には余裕があるが、闘牛の横っ腹は激しく波打っていて呼吸が荒かった。打たれた銛が赤黒く染まり、砂のうえには点々と血が模様を作っている。

「オーレ! オーレ!」と、観客がパセを続ける闘牛士に向かって叫んだ。男も声を張り上げ、女は黙り込んだままじっと闘牛を見るばかりだった。男の妻は、身を乗り出して左右に視線をやっていた。彼のパセはやはり闘牛との距離が近い。ムレタを持っていない手は闘牛の背を撫で、最後には尻を押しやった。

 深呼吸をするのが男の目にも見えた。ミゲル・テラデージャスの胸は上下し、祈るように目を瞑った。ちょうど同じ具合に女も手を組み目を閉じた。ワンピースも一緒に握りしめているので、白い腿が見えていた。

 エストカーダの瞬間、妻はちいさな悲鳴を上げて両手を口に当てていた。ミゲル・テラデージャスはボラピエというスタイルで、剣を柄までしっかりと送り込む。手品のように消えていった剣は、ムレタを靡かせて駆け抜けた闘牛の背に刺さり、彼の手から離れた。闘牛は四本の足を順に折ってゆき、最後にはとうとう横たわった。すぐに大きな身体の下には血溜まりが広がった。

 男は汗に濡れたハンカチを振った。

「ねえ、すばらしかったわね」

 ハンカチを振りながら、妻は「血だらけなのに笑顔が可愛いわ」と言った。女の拍手は力強く、ピンヒールは今にも地面に突き刺さりそうだった。

 耳を手に持ち、ミゲル・テラデージャスは場内をゆっくりと一周した。女は薄っぺらい手のひらで顔を覆い、その細い指の隙間から、手を振る彼の姿を見ていた。

 客席のなかでは立ち上がって手を叩く者も少なくなかった。女も席を立ったが、その針のような足は出口に向かっていった。
「顔だけかと思ってたよ」

「あなたって失礼な男ね。でもこれでミゲルがいい闘牛士だってことがわかったでしょう? あらあの女の子はどこに行くのかしら」

 女は防壁に沿って歩いていた。一歩進む度にヒールがコンクリートを叩いて硬い音を立てた。日陰であるソンブラ席で、真っ赤なドレスは目立った。背中のドレープが歩調に合わせて揺れる。ミゲル・テラデージャスは耳を持っていないほうの手を上げ、彼女に向かってちいさく振った。女は頬に張り付いた髪を耳の後ろへ流し、ミゲル・テラデージャスに「アンヘル」と言って微笑んだ。

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